嘆きをコミュニティで受けとめる

前回書いた共生革命リトリートの中でのひとつのテーマは「痛み/嘆き」だったと思う。
人は誰しも生きる過程でさまざまな「痛み」を抱える。それはその人にとっていろいろな意味合いを持つ経験だ。

リトリートではジョアンナ・メイシーが体系化した「真実のマンダラ」という儀式的なワークを執り行った。個人的には3回目の参加だったが、今回を含めどの場でも「自分自身が嘆きを表現する」ということはあまりピンとこない。
その場にいて、何か浮かび上がってくるものもあるのだが、それを思考でやっている感じもあり、表現しようというところまでいかなかった。それはそれでマインドが自己規制しているのかなぁ、と自分を見つつ。

今回の収穫としては、参加者の多様な嘆きを聴きながら、それが「私たちの嘆きである」という感覚が明確にあったこと。

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自分の中で何が生じても歓迎する=非暴力

昨日はオンライン講座「自己共感というアート」の2回目。
NVCとマインドフルネスを軸にクラスを組み立てている。

今回のクラスは「ニーズにつながること」と「自己共感」の2本立てで学びを展開。少人数でやっていることもあり、質疑も含めてライブ感を個人的には楽しんでいる。

講座のために資料を読み返していて「これは伝えたい!」と思ったことのお裾分け。

NVCの基本的な考え方のひとつに「相手の言動は自分の感情のきっかけにはなっても、原因にはならない」というものがある。(関連記事「自分の内側で生じることのきっかけと原因」
自分自身の中で何かが反応を起こしている。その反応の奥にあるいのちのエネルギーとしてのニーズが言ってみれば原因。
そのニーズが満たされていると心地よい感情が出てきて、満たされていないと不快な感情が出てくる。
なので、感情を手掛かりにしながら、自分の内側で何を切望しているのか、願っているのかにつながっていく。ざっくり言うとそれが自己共感。自分自身の内的体験に寄り添うこと。

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音霊奉納と内側の共感プロセス

先月、友人が企画する「新嘗祭」という神事で、音霊奉納をさせてもらった。
以前何かの集まりで余興的に吹いたディジュリドゥーを覚えていてくれて、「やってみませんか?」と声をかけてもらった。

英彦山の豊前坊/高住神社の中
ディジュリドゥーはかれこれ出会って20年になるのだけども、下手すると1年間触っていないということもざら。これまでの経験上、1〜2日、15分程度でも練習すると普段使っていない部分の腹筋や肺がディジュ対応に整う。今回も何日か練習して前日も音を出していた。

ある程度自分の中で演奏のパタンをイメージしておいて、あとは即興。
そもそも僕は楽譜や音階とかよく分からないので、感じたままに吹くだけのスタイル。

「あきらさんトップバッターで。時間も「何分以内」とかないので、自由に演奏してください」と当日の朝に伝えてもらう。

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ETCと共感

先日、ETCカードを搭載して高速道路にて
「〇〇出口(左)」「都市高速継続利用(右)」という2つのゲートがあったが、車線変更できず右に入ってしまった。
ETCが反応した感じはしなかったが、どうなっているのか分からない。
出口にETC専用もあったが念のため有人ゲートで支払いをする。
「左じゃなくて、右側を通っちゃいました」と伝えると「大丈夫ですよ」と軽い感じだった。

少し走ってから、何か気になりつつも帰路に着く。
自宅に戻ってからも、「気になる感じ」は残る。
さっき「右側」を通った際にもしETCカードに通行記録が残っていたら面倒だな。
ああ、ゲートの人に自分が言わんとしていたことは通じていたのだろうか?
「大丈夫」って何が大丈夫という意味だったんだろう。
明確に聞いておけば良かったなぁ。
次にETCで乗る時に引っかかったら面倒だぞ。
と思考はグルグル展開する。

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魚屋さんに気持ちを伝える

この瞬間に自分が大切にしたいことにしっかりつながると、思考で理屈を付けて判断するのとは違った行動にスーっと行けることがある。
習慣的あるいは反応的な行動ではなく、自分とつながったところからの意図的な選択。NVCで言う、自己共感のひとつ。
日常の中のひとコマ。

この数ヶ月、妊婦&産後ご飯の対応もあって、ときどき魚を購入していた。
近くの道の駅にある鮮魚コーナー。
何気に魚の質が高いなぁ、と思っていた。
パートナーはよく「今日は何がおすすめですか?」みたいな感じでお店のおじさんと話をしていた。

つい先日、立ち寄るといつものおじさんプラス経営者っぽい人がいた。
我が家の赤ちゃんも一緒だったので、話が弾む。「最近の赤ちゃんは昔と違って顔がしっかりしているよなぁ」といった話題で立ち話。
話の中で経営者っぽい人(オーナーだった)が「ここは今月(5月)一杯なんだよ」と言う。


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ある日の自己共感プロセス

NVC/共感コミュニケーションの中で「自分に共感する」というものがある。いわゆる自己共感。
先日、あったエピソードと共にこの点を整理してみたい。

【出来事】
パートナーと文房具屋さんに行った。「書類を保管するフォルダーを見たい。それと、いつも使っているノートも買い足したい」ということだった。
博多で仕事を済ませた帰り道に、よく行く文房具屋さんに寄ったのだ。

【思考の世界/自分劇場】
自分の想定=自分劇場としては、「見るもの、買うものが決まっているから、ささっと終わるだろう」というもの。
が、しかし、パートナーはあっちのコーナーでボールペンを見たり、こっちのコーナーで便箋を見たりと僕の捉え方で「関係ない動き」をしている。
「おいおい、早くしてよ!」というモードと共にイライラがやってくる。


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マインドフルネスとNVCの接点

10/15に「気づきの根っこ〜マインドフルネス×共感コミュニケーション」という企画を組んでいる。NVCとマインドフルネスを融合させた企画。どんな想いで何をやろうとしているのかを発信してみたい。

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6年ぐらいに渡ってヴィパッサナー瞑想(ゴエンカ式)に通っている。ここ2年は年越しで10日間コースに入っている。
おかげさまで、ほぼ毎日坐ることができるようになっている。「絶対にやめられない」と思い込んでいたお酒にも全く関心がなくなった。「全ては移り変わる」という理解の中で、執着することから離れる感覚も持てるようになっている。
とは言っても日常の中で瞬間的に怒ることもあるし、瞑想できない日があったり、自分の中に荒いエネルギーが出てくることもある。最近はパートナーと同居し始めたので、出てくる出てくる自分の醜い部分。。。まだまだ不完全な中で、一歩一歩歩みを進めている感じだ。
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「責める」か「嘆く」か

「責める」というのはどんな感じか?
以前、サイエンズ探究会で話をしていた時に出てきたこと。
*何か自分の中にあるモヤモヤした感じ、鬱積しているものを相手にぶつける感じがある。
*根っこには分かって欲しい、というのがあるけれども、どこかで「分からせてやる」みたいなモードに切り替わってしまう。
*自分の側に余裕がないと、特に責めるモードになりやすいかな。
*「責め」たとしても、事態はだいたい改善はしない。なのに、なぜか責める。。。
*自分の中の不満や精神的苦痛を相手にも味あわせてやる、みたいなモード。

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責めるモードの時にその土台に「自分が正しい&相手が間違っている」という枠組みにどっぷり浸かっていることが多い。この場合の正しさと間違いは、道徳的判断や価値判断がベースにある。
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自分の内側で生じることのきっかけと原因

「相手の言動は自分の感情のきっかけとなっても、原因にはならない」という理解がNVC・非暴力コミュニケーションのベースになっている。
これは、とても大切なポイントだ。サイエンズ的な視点も含めて、この点について自分の理解をシェアしたい。

よく聞くフレーズに「あの人の言い方で傷つけられた」「本当に人をイライラさせる態度だ」「否定された」などなどがある。
自分の感情の原因は外にあるという発想だ。

サイエンズ的に見てみると、「される/られる」ということ。これって、実際はどうなっているのか?

一品持ち寄りの食事会にチャーハンを持って行ったとしよう。
「このチャーハンちょっとベチャベチャしてるね」という一言を聞いた時、「否定された」という反応が生じないだろうか?

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