エグザイル(インナーチャイルド)との対話

つい先日にIFS講座の修了生とペアワークをする中で出会ったパーツとの対話
私自身は、パーツをイメージより身体感覚で捉えるため、プロセス中はほぼ目を閉じて、自分の内面を感じている状態。瞑想と同じとも言える。

自分の内的世界で繰り広げられていることを言葉にして、どこまで何が伝わるかわからないなぁ、と思いつつ共有してみる。

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近所で「ある出来事」があって、それに対して「モヤモヤする感覚」が自分の中にあった。胃/みぞおちの辺り。

そこに意識を向けると「怖い」「気持ち悪い」「悲しい」「怒り/憤り」といったいくつもの感覚と感情があることが分かる。

怒りの声を聴く
何に怒っているのか?
伝わってくるのは「人間が生きるってことはそんなもんじゃないだろう。もっと創造的であれるし、美しくあれるのに。何やってんだよ!冗談じゃねぇよ!!!」という感じ。
そうやって怒っていないと何が生じると心配しているのかを問うてみる。
「世の中の不条理、悲しみ、どうにもならないようなことに触れて、苦しい感覚に圧倒される。怒ることで、それを見ないようにしている」

なるほど。怒ることで、悲しみや絶望といった質に触れずに済む。そうやって、自分を保ってくれているパーツのようだ。
そう理解できると、怒っているパーツに対して穏やかな気持ちが湧いてくる。

そのパーツのことを認めると、その奥にある悲しみが波のように押し寄せてくる。
身体感覚として、鳥肌的なものがゾワゾワ~っと身体の中を動いていった。
ここで怒りに覆われていた悲しみが解放された感じがあった。

怒りのパーツに意識を戻して、いつからそれをしているのか?と問うてみる。
「怒ってきた時はいつもそうだっただろ」「嫌なことはいっぱいあったじゃない」
子どもの頃の記憶がパッといくつも浮かび上がってくる。

「あれも嫌だったねぇ、これも嫌だったんだよね」
と寄り添っていく。ちなみに、ここが「セルフからのコンパッション」の核心だったりします。

その中で、一番気になる出来事に注意を向けてみる。
小学2~3年だったと思う。「なんとか大将軍(ビックリマンシールみたいなモノ)」を大切に収集していた。
それを輪ゴムで束ねていたものを体操着入れの布袋に入れてあったのだが、無い!
あるはずのものが無い。

ものすごくびっくりしてショックだった。
「無い!」って騒いでいたら、友達(そこまで仲良しでもないが、同級生)が返してくれた。

その時にあった感情や感覚を、パーツ(エグザイル/インナーチャイルド)が抱えているものとして、落ち着きや思いやりとともにセルフから受け取っていく。

大きな驚き、混乱、ショック、絶望、胸のあたりがぎゅーっとして呆然とする感覚。苦しい。

大切にしていたものがないがしろにされる。
安心していられない。警戒していなければいけない。
傷ついた。
投げやりになる。やる気が失せる。どうでもよくなっていく。

そこにあった経験、感覚を十分に時間を取って丁寧に受け取る。
「でも、戻ってきてよかったじゃない」「まぁ、子どものすることだからさ」「その友達も欲しかったんだよね」といった見解や解釈は一切はさまず、ただただパーツが持っているリアリティに寄り添う。

あまり覚えていないけど、当時は「ふざっけんなよ!」的な怒る反応を相手にして終わっていて、自分の中の悲しみには一切触れていないのだと思う。
ただ寄り添って話を聴いてくれるような存在もいなかった。

当時の小学校の教室から、別の場所に移動して、「その時にどんな感じだったら良かったのか?」と問うてみる。

「欲しいなら欲しいと言ってもらえたらいい。そしたら、交換するとか何かやり取りができたはず。勝手に取るとか、奪うみたいなことは嫌だ。」

穏やかさ、落ち着き、人間としての智慧、知性。
人間の美しさや創造性。そういったものを願っていた。

一連の経験をしたことで背負った重荷があるとしたら何か?
「取るか取られるか/人は信用ならない」という感覚であり信念。

その感覚と信念を海辺の砂浜に埋めて、砂浴状態でデトックスする。
手放した上で、自分が持っていたい質は「人間が本来持っている知性や創造性、争いではない形で解決していく智慧、おおらかさ、余裕」。

自分の中の関心として、地球上のひとりひとりが持っている創造性や潜在力をフルに発揮し合ったら、どんな世界がやってくるのだろうか?というもの。
その世界には争いはないだろうな。

プロセスを経て、聴こえてきた声は「人間に対する嫌悪感、絶望、嫌だなぁと感じるものはまだまだあって、ちゃんと聴かれていないぞ」というもの。
自分の中で「嘆く」ことをしようとする時に、「そんなこと言うけど、自分だってさぁ」という自己批判の声がくっついてくる。
この辺はまた別の機会に声を聴いていこう。