田んぼで出会う深い感覚

今年は意識的に「お金のための労働」を減らしている。
その代わりに「食べるための労働」を増やしている。田畑に出る時間が増えた。

この間、田んぼは常に「誰か」が関わってやっていた。
今年は、3枚で合計1反3畝ぐらいかな?をひとりで対応することに。
それほどの広さではないけれども、機械は最小限の利用なので、何かと手作業が増える。
「面倒くさい」「手間が増えた」「やってられない」
という反応が出てくるのが一般的なのだろうか。

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「自然に働きかけることで、自然から働きかけ返される」
こんなフレーズがある。
正にその通りだと思う。手間が増え、田んぼに関わる時間が増えたことで、働きかけ返される密度が濃くなった。そして、そこに歓びがある。
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お茶の自給

春になると、植物が芽吹き出す。
その柔らかな新芽や葉っぱを活用してお茶を仕込む。

先日、赤村にて大先輩からお茶摘みと製茶を一通り習った。
お茶は毎度よく飲むので手づくりしてみたいなぁ、と思っていた。
ある山の中に茶の樹があることを発見していたので、茶摘みと製茶を自分でやってみた。

「一芯二葉」という言葉があるのだが、お茶を摘む時に芯1つと葉2つまで摘むということ。その辺は柔らかくてお茶に向いている。
ザックに一杯取ろうと思って意気込み充分でスタートするも、全然たまらない。
1時間半ぐらいトリの声を聞きながら作業。ザック5分の1ぐらいは収穫できたのでよしとした。
昔、インドの茶園でひたすら茶摘みをする人達と少し交流したことがあったが、自分でやってみると、彼らがいかに手際が良いかが分かる。彼らは1日中ぶっ通しで茶摘みをしてるのだよなぁ。
そのお茶が買い叩かれるケースが多い世界の現実。安い紅茶に手を出したくないなぁ、と改めてそんなことを思いながら、家に帰って製茶。

製茶は「釜煎り茶」という方法。中国式らしい。
フライパンに茶葉を入れ、水を足して蒸し煮状態にする。

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天然菌で麹仕込み

ここ数年、田んぼ(無肥料&無農薬)で稲刈りをしていると、「稲魂:イナダマ」とも呼ばれる天然の麹菌がアチコチで発見できていた。

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季節的なタイミングと環境条件が整うと、発生するのだと思う。
「農業」の中では「稲こうじ病」という「病気」として捉えられている。対策は農薬を振ることらしい。。。

この天然の麹菌から麹を仕込みたいな~と毎年思っていた。
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今年のユズと自然の循環

毎年、けっこう実をつけてくれるユズの木。4本が敷地にあり、ありがたく使わせてもらっている。

今年は、夏の日照が少なかったこともあり不作。
あまり実が成っていない。

毎年、この時期にはユズ酢を絞るイベント企画を実施するのだが、あまりにユズが少ないので見送ることにします。来年はまたたわわに実ると思うので、ご一緒しましょう。

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6月辺りに、ふと庭先をみていると、モシャモシャっと何かが生えている。
草刈り中だったので、ザクッといくところだったけど、手が止まる。
んん、何だこれ?と思って良く見たら、ユズだった。
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水が少ない!

僕が扱わせてもらっている田んぼは、いわゆる「ヤマツキ」の田んぼ。
山の中にあり、基盤整備も入っていないので、小さい田んぼ。
でも、集落の先人達が丁寧に環境を整えて来た田んぼ。

今年は、とにかく雨が少ない。
というわけで、田んぼに入る水が圧倒的に少ない。

これにはいかんともしがたく、どうしようもない。
雨を待つしかないという状況。
しかし、なんとかしたい。

ということで、上の田んぼから落ちていく水をホースで引かせてもらうことに。
ホースをどう固定しようか、アレコレ考えた。
突っ張り棒のようなもので側溝に固定する?
木の板をはめて、そこにホースを固定する?
お金をかけずに、知恵工夫と思いながらツラツラ考える。

ん、土嚢でいいじゃん。
ということで、土嚢で水を止めてホースを置き、その上にまた土嚢を乗せることに。
ホースの先には壊れた雨樋(塩ビ管)を利用。
土嚢といっても、買い物袋に土を詰めた簡易のもの。
高低差でホースの中を水が移動して、田んぼに入る!

この水がなければ、いっこうに田んぼの準備ができなかったので、かなり有り難し。
そして、数日前に降った雨で、田んぼが田んぼになりました。
百姓仕事は、本当に自然次第。「まぁ、しゃーないね〜」ぐらいの気持ちが育まれます。でも、山の保水力が落ちているのかもなぁ、とも思い、やや心配にもなりますね。

そろそろ田植えです。
が、明日は大雨の予報なので、イベントは中止とさせていただきました。

2度目の10日間

2度目のヴィパッサナーは自分の中に少しの余裕があった。
勝手が分かっているというか、流れも頭に入っているから、不安がない。
余計な事に意識を取られずに、瞑想に集中することができた。

3日半はひたすら「鼻から出入りする呼吸に意識を集中させる」という修行。
アーナーパーナー瞑想という。これが、辛いのなんのって。。。
とにかく、集中が出来ない。情けないぐらい出来ない。
瞑想は大体1時間から2時間のセッションなのだが、1時間ほとんどウツラウツラと眠っている状態だったり、3分と集中できずにアレコレとしょうもない考え事に支配されていたり、身体が痛くて瞑想どころではなかったり。
「京都に瞑想に来て、1時間の居眠りってなんやねん!」と自分にツッコミを入れてみたり。
とにかく、意識も身体も長時間の瞑想に慣れていないので、かなり辛い。
この状態が3日目ぐらいまで支配的だ。

しかし、この「集中できない」という事自体が、こころの汚濁が浄化されるまいとしている抵抗とのこと。
とにかく、粘り強く、辛抱強く、修行を続ける事を諭される。

確かに、徐々に意識と身体が慣れてくるのか、楽になってくる。

慣れてくると1時間座っているのも楽々やれる感じになる。
アーナーパーナー瞑想を3日半やった後に、身体の感覚をたどっていく「ヴィパッサナー瞑想」に入る。
この段階では、身体が慣れてきていることもあり、意外とスムーズに瞑想できるようになっている。もちろん、妄想もたくさん出てくる。

6日目には全身の感覚が流れるように移動する「フリーフロー」がやってきた。
3年前はひと呼吸で肌感覚が頭の先から足の先まで2往復する激しい流れを感じたことがある。今回は、かなりゆっくりなのだが、身体の表面をエネルギーが流れている感じを得ていた。
その他にも光に包まれているような至福に満ちた感覚や、自分の肉体とそれを観察している意識が別離しているような感覚など不思議な経験もあった。
前回はそういった経験に浸っていたが、今回はそれを冷静に見つめることが出来たと思う。
この瞑想法の大切なポイントはこういった感覚に惑わされずに、それも「過ぎ去るもの」としてただただ見つめる、観察するということ。
並行して身体の感覚に意識を向けておくということ。
そのプロセスの中で、潜在意識下のこころの汚濁が浄化され、本来の意識に近づいていく。
確かに、瞑想を積み重ねることで、意識は軽くなり、アレコレと反応しなくて済んでいる自分がいることに気が付く。
そして、自然と「慈しみのこころ」が立ち現れてくる。
「ああ、いのちの本質は優しさ・慈しみなんだ」
ということが、頭ではなく、身体と心の全身で丸ごと理解できるとでも言おうか。
正に、腑に落ちるという身体感覚がピッタリくる。

教えの中で、知恵には3つあると説明されている。
「借りた知恵(人から聞いたもの)」「頭で考えた知恵」、そして「体験した知恵」だ。
この「体験した知恵」が最も大切とされていて、それを体得するために、瞑想をするということだ。
ブッダは次のように語っている。

「自分の修行は自分でしなければならない。
ゴールに到達した人は、その道を教えることしかできない。」(ハート:125-126にて引用)

というわけで、全人類に体験して欲しいとすら思うわけです。
もちろん、一度体験したら全て浄化されるというわけではなく、継続的に浄化は続けていく必要がある。時間は限られるけれども、座ることが毎日の習慣になってきている。

参考文献:ウィリアム・ハート(1999)『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』春秋社.

気付きのために〜自然〜

「自然に生かされている」という気付きに近づくために、僕が大切にしていること。
ひとつは、前回書いた「ノイズを減らす」ということ。
もうひとつは、当然だが「自然」の存在。

ノイズから離れたことがない、
常にノイズに囲まれちゃっている人にはなかなか話しが通じない。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているし、
ノイズがない状態を経験していないからだと思う。

東京に暮らしている時の僕は正にそうだった。
あの漠然とした閉塞感と不安は何だったのだろう。

ある人とこんな話しをしている時に
「君の言っていることは、分かる。けど、伝わってこない」と言われたことがある。
その時に「経験」ということの大切さを思った。

僕がラッキーなのは、都市も田舎も両方経験しているということ。
ありがたいことだ。

両方に身を置いてみて、やっぱり自然の近くに生きる方が断然良いと感じる。
僕にとっては。

自然は時に牙をむき脅威にもなるが、
僕の経験上は、自然はかなり優しい。
その中で暮らしているだけで、とても安心感がある。

この安心感こそが、「生かされている」という感覚だと思う。
北の国からというドラマの中で、吾郎さんが
「心配すんな。自然はオマエひとりを食わせるぐらい、なんてこたぁねぇ」といった趣旨のことを語っているらしい。
1粒の米粒が2000粒ほどに増えてくれること、
栽培していないのに畑の中にはアレコレこぼれ種から野菜が育つこと、
野草や山菜が季節のリズムと共に顔を出すこと、
自然が恵んでくれるということだ。
感謝は努力して「する」ものではなく、「湧き出る」ものだということが腑に落ちる。

『森の生活』を書いたヘンリー・D・ソローは
「1日最低4時間は大自然の中を歩きなさい」と語っているらしい。

D・スズキは、1日30分意識的に自然に触れること、外に出ることを30日間続けてみようと提唱している。
そこで生じる変化や嬉しさ、愉しさを感じて欲しいという趣旨。

30 × 30 nature challenge (English only)

すごく良い取り組みだと思う。
愉しみながら自然の中に身を置くというのが良いと思う。
その遊び心の中から、発見や理屈抜きの愉しさが湧き出てくると思う。
そして、自然に感謝の気持ちも。

こういった余裕を常に持って生きていたいと思う。

「みんなが、1年ぐらい農村に住んでみると良い」といった発言を読んだ記憶がある。
都市で暮らすよりもコストは低いし、自然に近いところで暮らすという意味でも良いと思う。自治体レベルでそういった受け入れをしても面白いだろうと思う。

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半農半スロービジネス合宿を12月6〜8日(2泊3日)で開催します。
ここで表現しているようなことを体験的に学べます。

「自然に生かされている」という気付き

先日書いたブログの記事「2つの視点 MAN/Chaplin」。
2つの対照的な人間像を紹介したもの。
フェイスブック上でいくつか反応をいただきました。その中で、

「目 の前のありとあらゆるものに命を認める生き方が鍵だと思います(尊敬する野口法蔵、ティクナットハンも言っています)。頭では理解できているんだけど、こ の認識はヴィパッサナー的な認識の仕方を深めることで(もしくは他の方法:稲刈りとか)、実感を伴って体感できるものなのでしょうか?」

という質問をいただきました。

頭では理解できるけれども、腑に落ちない。あるいは、具体的な行動レベルでの変容が難しい。
こういうことって、僕の中にもたくさんあります。皆さんの中にもたくさんあるんじゃないかな。

この質問に応えるべく書いてみたい。

僕は「全てはつながっている」「人間も自然の一部」というディープエコロジー的な考え方と感覚を持っています。

サティシュ・クマールさんのスタンスにはとても親近感を覚えます。

こちらの動画「エコロジーとエコノミー」もぜひご覧ください。

都会(と言っても郊外でしたが)で育っているので、自然と身近な暮らしではけっしてなかった20代前半。仕事で農山村を駆け回るうちに、自然ということが身近になった。
農村に移り住んで、田畑に働きかけているうちに、なんだか不思議な感覚が自分の中に芽生え始めた。
言葉にすれば「自然に生かされている」ということ。あるいは、「圧倒的な安心感」。それが、考えとしてではなく、感覚として自分の中にあった。あるいは、それに「気付いた」ということ。


1粒の種モミが、これだけのお米になる(横向きの赤米は1株分=つまり、元は1粒)

1粒の種モミが2000粒のお米になる。「米を作る」などと言うのは本当におこがましく、僕はただ環境を整えているだけ。「百姓は稲を作らず、田を作る」という言葉があり、その通りだと思う。水、土壌、太陽の光、微生物、昆虫、風、いろいろなものが重層的に関わる中で、稲が育つ。


田んぼには小さな貝も生息している。

そして、育った稲は僕のいのちになっていく。生かされているから、キレイに生きたいと思うようにもなった。

この感覚、気付きに多くの人にもアクセスして欲しいと思っている。半農半SB合宿をやっているひとつの理由はココにある。
合宿で意識している「仕掛け」、僕が日常で意識していることを追って紹介していこう。