音霊奉納と内側の共感プロセス

先月、友人が企画する「新嘗祭」という神事で、音霊奉納をさせてもらった。
以前何かの集まりで余興的に吹いたディジュリドゥーを覚えていてくれて、「やってみませんか?」と声をかけてもらった。

英彦山の豊前坊/高住神社の中
ディジュリドゥーはかれこれ出会って20年になるのだけども、下手すると1年間触っていないということもざら。これまでの経験上、1〜2日、15分程度でも練習すると普段使っていない部分の腹筋や肺がディジュ対応に整う。今回も何日か練習して前日も音を出していた。

ある程度自分の中で演奏のパタンをイメージしておいて、あとは即興。
そもそも僕は楽譜や音階とかよく分からないので、感じたままに吹くだけのスタイル。

「あきらさんトップバッターで。時間も「何分以内」とかないので、自由に演奏してください」と当日の朝に伝えてもらう。


新嘗祭の神事が進む中で、「玉串礼拝」というのがあった。一人ひとりが前に出て玉串をお供えして、神道式の礼拝をする。
これを参加者がやっている中で、自分の中で「何か」が起きていた。「周囲の目が気になる」という感じがずっと出てくるのだ。「正しいやり方」があって、それに合わせなければいけない。そんな意識と警戒感に近い緊張があった。
その辺が気になっているもんだから、自分が礼拝してても「お、良い感じで2拍手の音が出たぞ」なんてことをマインドが考えていて、心まったくここにあらず。ああ、もったいない。

自分の席に戻ってから、「自分の中で、何やってんだろ?」と観察&プロセスしてみた。
出てくるのは、周囲からどう思われるかが気になっていて、「あれじゃダメだよね」みたいな批判というかダメ出しを恐れている自分の部分があるということ。それにチューニングを合わせると、ものすごい窮屈な感じがしてくる。息苦しい。
その感覚をたっぷり味わいながら、その奥で願っていることに焦点を当ててみる。
そこにあるのは、周囲を気にせず自由に動きたい、振る舞いたい。自分の中のイキイキさをベースにして伸びやかに過ごしていたい。そんなエネルギーにつながった。

すると、周囲にどう思われるかは、そんなに重要ではなく感じられ、そのままでOKなのだ、という感じになってくる。ふー、軽くなった。
そこに立てると、変に周囲を意識した緊張はなく奉納演奏をすることができた。

自分の中では「外に偉い神がいて、その神に演奏を捧げる」という感じはない。
自然やいのち、宇宙を動かしている神秘やエネルギーをたたえて、そこにある喜びとかイキイキした感じとか、そんな質感を演奏を通して表現する、という立ち位置だった。

木造の建物で音が反響することもあったのか、けっこうディジュの音は響いたみたい。
数名から「ヒビイタよ!」というフィードバックももらえて、シンプルに嬉しかった。