気付きのために〜ノイズ〜

前回、「自然に生かされている」という気付きについて書いた。
この気付きにつながるのに、必要だと僕が思っていることを紹介したい。

ノイズを減らす

今の社会はノイズで溢れかえっている。
騒音、雑音はもちろん、過剰な宣伝広告、メディアが垂れ流す下らない情報などが意識せずとも飛び込んでくる。
正に、耳にも眼にもノイズだ。
それだけではなく、食品を手に取れば、その裏面には数え切れないほどの添加物リスト。
カタカナだらけで、わけが分かんない。コンビニ弁当1個には累計で300ぐらいの添加物が入っている場合もあるらしいよ。
ジャンクフード。これは、口から入ってくるノイズだ。
空気も汚れてるし、水道水には塩素とフッ素が入ってるって。
電磁波はところ構わず飛び交っているし、今や放射性物質まで漂ってるよ。
そして、人間関係もギスギスしてたり、勝つか負けるかの駆け引きがあったり。

ああ、ノイズだらけ。


FBでシェアされていた画像を借りました。

そんなノイズに取り囲まれていると、感受性や気付きの感覚が退化すると思う。
僕もそうだった。感じないことで自分を守るように本能が働くんだ、きっと。
そして、待っているのはストレスと漠然とした閉塞感、生きることに希望を持てない感覚。
それを誤摩化すために、人は横暴になったり、人の気持ちを踏みにじったりするんだろうか。
この状況下で原発推進とかさ。

農山村に移り住み、都市で浴びていたノイズから距離を取れるようになった。
ここにあるのは静寂。自然が運んできてくれる明るさと暗さ。美味しい空気と水。ピュアな野菜とお米。
携帯の基地局が残念ながら近くにあるけど、僕自身は携帯不携帯なので電磁波の影響も軽減されてる。パソコンや家電もアースを取っている。

食べると身体が重くなるから、添加物入りの食品は極力避けている。
まぁ、はっきり言って、美味しくないんだよね。ただ、それだけのこと。
そうしてたら、それらが「まともな食べ物」に見えなくなってきた。

TVなし生活も10年近くになる。
余計な情報が入ってこないし、あの独特のやかましさがないことが嬉しい。
冷蔵庫も置いていない。あの1日中うなっているモーター音ともおさらばした。

ストイックに思えるだろうけれども、そうでは全然ない。
僕にとっての快適さをシンプルに追求していったら、こうなった、というだけ。

ノイズから離れたら、感じるスペースが広がった。
そりゃそうだ、当たり前だ。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているんだから。
そこから解放されたらセンサーは動き出す。

つづく

「自然に生かされている」という気付き

先日書いたブログの記事「2つの視点 MAN/Chaplin」。
2つの対照的な人間像を紹介したもの。
フェイスブック上でいくつか反応をいただきました。その中で、

「目 の前のありとあらゆるものに命を認める生き方が鍵だと思います(尊敬する野口法蔵、ティクナットハンも言っています)。頭では理解できているんだけど、こ の認識はヴィパッサナー的な認識の仕方を深めることで(もしくは他の方法:稲刈りとか)、実感を伴って体感できるものなのでしょうか?」

という質問をいただきました。

頭では理解できるけれども、腑に落ちない。あるいは、具体的な行動レベルでの変容が難しい。
こういうことって、僕の中にもたくさんあります。皆さんの中にもたくさんあるんじゃないかな。

この質問に応えるべく書いてみたい。

僕は「全てはつながっている」「人間も自然の一部」というディープエコロジー的な考え方と感覚を持っています。

サティシュ・クマールさんのスタンスにはとても親近感を覚えます。

こちらの動画「エコロジーとエコノミー」もぜひご覧ください。

都会(と言っても郊外でしたが)で育っているので、自然と身近な暮らしではけっしてなかった20代前半。仕事で農山村を駆け回るうちに、自然ということが身近になった。
農村に移り住んで、田畑に働きかけているうちに、なんだか不思議な感覚が自分の中に芽生え始めた。
言葉にすれば「自然に生かされている」ということ。あるいは、「圧倒的な安心感」。それが、考えとしてではなく、感覚として自分の中にあった。あるいは、それに「気付いた」ということ。


1粒の種モミが、これだけのお米になる(横向きの赤米は1株分=つまり、元は1粒)

1粒の種モミが2000粒のお米になる。「米を作る」などと言うのは本当におこがましく、僕はただ環境を整えているだけ。「百姓は稲を作らず、田を作る」という言葉があり、その通りだと思う。水、土壌、太陽の光、微生物、昆虫、風、いろいろなものが重層的に関わる中で、稲が育つ。


田んぼには小さな貝も生息している。

そして、育った稲は僕のいのちになっていく。生かされているから、キレイに生きたいと思うようにもなった。

この感覚、気付きに多くの人にもアクセスして欲しいと思っている。半農半SB合宿をやっているひとつの理由はココにある。
合宿で意識している「仕掛け」、僕が日常で意識していることを追って紹介していこう。

2つの視点 MAN / Chaplin

2つの動画に見る人間性
最近、見る機会があった動画2つについて。

ひとつは“MAN” by Steve Cutts

3分半ぐらいで、今、人間がしでかしていることを上手く表現している。
見ていて、ちょっと悲しく、胸くそ悪くなった。
「でも、これが現実だよなぁ」という気持ちもあった。

自然と切り離されて、自分が正しいと思い上がり、傍若無人に振る舞う人類。
なんで、こうなってしまっているのだろう?
多分、自分にもそのエッセンスの一部は内在している。

もうひとつの動画は 「チャップリンの史上ベストスピーチ」

このスピーチは、高校生の英語の授業で暗記した覚えがある。
何となく、自分の中にも残っているモノだ。
改めて見ると、すごく勇気づけられる。
人類の可能性を語ってくれている。

どちらが本質か、ということではない。
どちらも、可能性だと思う。
どちらの可能性を選ぶのか?
ひとりひとりの選択。
そして、一人ひとりの選択が潜在意識も通過して人類の選択になると思う。

ひとつの同じ現象を経験したり、知覚しても、ひとりは希望を見て、ひとりは絶望を見る。
それは、ひとそれぞれ。

けれども、田んぼで仕事をしながら、空を見ながら、美味しい水を飲みながら思う。
自然の調和を感じられる環境に身を置いたら、
どちらが本質的か、自然の理に沿っているか、肌感覚で自ずから分かる。

時間と豊かさ

2月で7年続けさせてもらった職場を離職した。
その後、毎日が日曜日状態。
今までもそういったフレーズは使っていたけれども、本当に毎日が日曜日になると、感覚が全然違う。
「ビンボーヒマ有り」ということで、時間の流れがとてもゆっくりしている。

この2週間ぐらいはひたすら稲刈りをしている。
そんなに広い田んぼではないけれども、ゆっくりやっているから時間がかかる。
けど、時間があるから全く問題無し。

この7年の間、アレコレと手を出して忙しくしていたので、「ヒマ無し」「余裕無し」だった。
時間があると色々なことが見えてくるし、やってみることができる。

庭にある柿をもいで食べること。これまでは、気付くと大分落ちてしまっていた柿。今は、時間があるから採って食べることができる。
これだけ、柿がたわわに実っていると、どんどんお裾分けしたくなる。これを売ろうという気にすらならない。不思議な感覚。

集落のおじいさんのイチョウの木。
先日、作業をしているおじいさんが僕を見つけて声を掛けてくれた。
「ゴトー君、今日はおるんかね。休みか?あんた、ギンナン要らんかね?落ちてるのを拾って良いぞ。ワシが必要な分はこんだけあれば、足りるからなぁ。落ちたままだと気になる。取ってくれ」と。
ということで、今年はコンテナ1杯ギンナン確保。まだまだ落ちている。もう少し確保しようかな。
この樹はおじいさんが35歳ぐらいの時に植えたそうだ。もう、47年ぐらい生きている。ここにも、時間の流れ。

BDFの製造
ディーゼル車を動かすために、バイオディーゼル燃料を仕込んでいる。
廃油をいただいてきて、それを化学反応させて、燃料にする。
それなりに、時間と手間が掛かる。けれども、化石燃料ではなく、再生燃料(植物性)で移動できることの歓びが上回る。これも、時間があるから出来ていることでもある。

稲刈り
コンバインやバインダーで刈ってしまえば、おそらく1時間もかからず、全て終わるだろう広さ。時間があると、じっくりイネと向き合い、季節を感じ、風を感じ、虫の声に聞き入る。そんな時間がとても豊かで幸せなのだ。

空を見上げる
時間があると、夕焼けをじっくり眺めたり、珍しい雲を眺めたり。
 

生きるって、そもそもこういうことなのではないか?
仕事自体は嫌いじゃなかったし、意義深いものだった。
けれども、自分を生きるという点からすると、より今のスタイルが本質的だ。

これからの僕の世界では、週2日働いて、後は農作業をしたり、暮らしの営みに従事する。それがスタンダードになるようにデザインしたい。
それを支えるのは不労収入や株で大もうけ、ではない。そんなタマス的な営みには興味がないし、自分の精神に良くないことが明確に分かっている。
よりサトヴィックな営み。足るを知るこころと実践、支出を減らす具体的な工夫が大切になってくる。そして、それが僕の歓びにつながる。

時間があると、気付きも増える。
まぁ、ゆっくりお茶でも飲みましょう。

identity politics

自分が何者であるか。
外から与えられるラベル貼り=レッテルもアイデンティティになり得る。知らぬ間に、自分が自分の本質と違ったところで定義されてしまう。注意が必要だよね。
「あの人はこうだから」、「この人は○×なのだよ」といった感じで。

ふと気づくと、僕は元カフェの人になっている。まぁ、事実だけど。
今でも「元クリキンディ」「コーヒー屋さん」という印象が強いらしい。
もっとも、元カフェを外した時に「で、あの人は今何してんの?」というところが全く見えないからだと思う。
なので、ひとまず、「あの人は元クリキンディ」ということに多くの人は落ち着くようだ。多分、その多くの人たちも「でも、なんか変よねぇ。あの人何者なのかしら?」と思っているに違いない。逆の立場なら、本当に謎なヒトだと思うよ。
(ちなみに、クリキンディとは赤村で6年続いた自然食・スローカフェ。ワタクシャそこの仕事もしていました。)

そろそろ元カフェ/元コーヒー屋のアイデンティティを放棄しようと思う。自分の中ではとっくにどこかへ置いてきているのだけど。

意図的に自分のアイデンティティを創る。
既存の職業の枠組みに自分を当てはめるつもりが毛頭ない。本当にない。
「職業あきらごとう」なので「これです!」というのが難しい。

これからは「自然と暮らしと平和のがっこうという学びの場を展開する人」「ファシリテーター」「ワークショップ・コーディネーター」「コーチ」というアイデンティティを選び取っていきます。
そこへ向けて明確な意図と努力と学びを積み重ねていく。

カタカナだらけで、何する人か相変わらず分からんって?
出会えば分かるよ。これで良いのだ。

beart blog re-start

ここ数年、個人的な発信を控えてきた自分がいる。
ゆっくり村のブログに集中していたから。

そのせいか、自分の考えをまとめて発信するということから遠ざかっている。
たくさん本も読んでいるし、考え事もしているし、感じていることもある。
そういったことを丁寧に発信をしたいな、と思い始めた。
というわけで、beart blog re-start。
主に、僕の世界観と暮らしをお伝えしていきます。

写真は、家の真ん前にて見れた彩雲(さいうん)。
ちょっと前にカンボジアでも見たのだけれども、こちらの方がくっきり明確に見えた。
re-start には良い兆候。