アフロダンスのレッスン

12月の新月の日からアフロダンス教室に通っている。赤村から車で20分ほどの行橋の会場にて。
アフリカンダンスのレッスンだ。

数年前にマリ製のけっこう本格的なジャンベを購入して、適当に叩いていた。
「太鼓に合わせて踊りましょう」といったPRもあったので興味もあり参加することに。身体の使い方、身体を動かすこと自体にも惹かれた。
ちなみに、これまで踊りとはあまり縁がない。小中学校でやったぐらいかな。

今日で1ヶ月=4回の参加となった。
これが、とっても面白い&解放感がある。
だんだん、身体が覚えてくるのか、自分自身で動きがスムーズになってきているのが分かる。
頭で理解しようとするのではなく、感覚を頼りに動く。
初めは、ぜんぜんできなかったステップも徐々にできるようになってくる。
特に復習をしているわけでもないのだが、身体が馴染むんだろうね。
その事自体も面白い。

ダンス自体は結構ハード。
簡単そうに見えても、全身を使って踊るので身体には良い刺激。

普段は「頭で理解してから動く」ということがほとんどだが、ダンスはとにかく身体を動かして、身体で感じる。
いつもは使っていない回路を使うというのも自分の領域が広がる感じがしてすごく愉しい。
多分、自分でイメージしているよりも、身体は動いていないのだろうけれども、徐々に可動域が広がっている気もしてる。身体が自分に戻ってくる感じもする。分かるかな?


薪ストーブの窓に現れたダンスの精霊!?

かおるさん(先生)もかなりエネルギッシュに動き回り、的確にポイントを伝えてくれるので分かり易い。何より、自身がすっごく愉しそうにイキイキと踊っているのが素敵。
今日はステップが分からず混乱していたら、皆で手をつないで「ステップを感じて!」と。不思議と、手をつないでステップを踏むと、ただ見ながら真似ようとするよりも腑に落ち易い。

こうして定期的に身体を動かしていたら、より健康になるわなぁ、と思っている。
アフロダンスは正に「動」の身体性。滞りも解消してくれる。
何より無心で全身を動かし、汗かいて、たくさん呼吸して、たっぷり笑って。幸せな時間だよ。

普段の生活の中にも取入れたいな〜、と思えてきちゃう。
最近、なんだか体調の波が激しいので、ダンスで邪気を吹っ飛ばしたい。

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かおるさん(先生)のブログ:興味の有る方は要チェックです。
ダンスクラス始めます

★お話し会:人を良くする食!? テンカブツから考える 1/25

10月に食と農の達人祭@川崎町ラピュタファームにて行った「添加物」のお話し会。
「うちでもやって」というオファーをいただき、1月25日にえこわいず村さんで実施します。タイミングの合う方ウェルカムです。

添加物関連の資料を読み返しているけど、本当に根っこはデタラメな原発と似ているんだよねぇ。そこのマインドセットを具体的に切り替えていかなければ!

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人を良くする食!? テンカブツから考える
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何となく気になっている「食品添加物」
「何にでも入っているし、避けられないのでは?」
「危なそうだけど、イマイチ良く分からないなぁ」
「危険なモノと危険じゃないモノがあるの?」
そんな素朴な疑問やモヤモヤをお持ちのみなさん、
これを機会にちょっと整理して学びましょう。

そもそも添加物とは何なのか?
その影響や害も含めて、知ることから始めましょう。
そこから自分と家族の健康を守る工夫がスタートできるでしょう。
当日は映像も見ながら、学びを深めます♪

★ナビゲーター:後藤彰(自然と暮らしと平和のがっこう ゆっくり村プロジェクト)
参加費:1,000円:要予約 (ドリンク付き)
★日時:1月25日(土) 14:00- 15:30頃
★場所&問い合わせ&予約先: えこわいず村 tel:093-617-2444
北九州市八幡西区馬場山東2丁目1-6
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以上

意図的な貧困!?

先日、紹介されていた記事を読んだ。
「意図的に貧困を選ぶ人々」について、英語の記事だ。

消費社会とストレスフルな仕事が嫌になり離脱した人。
住居のスクウォッティング(占拠)をしていた人。
ジャーナリストとして活躍することを夢見て、今はお金のない暮らしに耐えている人。
いろいろなタイプがあるけれども、「意図的に貧困」を選んでいるということだ。
そういった選択をできること自体が特権で、貧困にならざるを得ない黒人やヒスパニックの置かれている状況との間にはギャップがあると解説されている。
けれども、ひとつのライフスタイルを提示しているのではないか、といった趣旨の記事。


“Living on $5,000 a year, on purpose: Meet America’s ‘intentional poor'”

メインで記事に取り上げられているプライスさんは、年間5000ドルで暮らしているという。日本円で50万円程度。
移動は自転車、食事はシンプル、病気にならないように運動をして、ホビットホールと言われる洞窟のような家に住んでいる。写真を見るだけでも面白い。

彼の暮らしを「意図的な貧困」という切り口で記事は捉えているのだけれども、ぜんぜん貧しくないと思う。
むしろ、すごく贅沢な暮らしだ。
僕も消費主義とはバイバイしちゃったし、収入もガクンと減らしているし、買うよりも作るというスタンスで生きている。確かに、金銭面で比較すると他の人よりも少ない。けれども、自分が貧しいとか惨めだと思ったことは全くない。
自由な時間、自分と向き合うこと、好きな本を読むこと、自然を感じること、創造的な活動をすること、ピュアな水と空気、野菜と米をいただくこと、どれもこれも、仕事をしていた時よりも格段に豊かだ。
これはもう「意図的な幸せ」である。


ふとよく見ると、とんでもなく美しい自然の造形

上記の貧困に陥れられてしまう人たちのことを思うと、複雑な心境にはなる。
けれども、自然の近くで暮らしを営む、自然からいただく、自分の手を動かして作り出すというところに意識を集中して動いていけば「あぁ、システムが貧困を作り出して、そこにはめられてしまうんだ」と理解できると思う。


今年たわわに実ったゆず。ブツブツ交換を呼び掛けたら、お菓子、米、野菜、Tシャツ、果物、書籍などに化けた。感謝。

「問題を作り出したのと同じマインドセットで、その問題を解決することはできない。」アインシュタインの言葉。

年間50万円で生き延びるスキルを身につけられたら、意図的な幸せを作る力も相当あるよね。年間の金額は、まぁ、どうでも良い気もするが、少なくてもやっていけるということは、それだけ生きていくスキルが磨かれるってことだと思う。

電磁波のお話し会の報告&お知らせ

先日、電磁波についての「お話し会」をさせていただきました。
ふくおか市民政治ネットワーク北九州さんにて。
11名の方々と一緒に学びました。

そもそも電磁波って何なのか?
健康被害はあるのか?
どう対策したら良いのか?
電磁波と社会の在り方・・・などなど

『デンジハ?身近なヒバクとその対策』を基本テキストにしながら、
電磁波検知器でノートPCを調べたり、
その場でアースを取ってみたり。

みなさん、関心が高く、熱心に聞いてくださり、こちらもやり甲斐がありました。


冒頭で挙げてもらった「素朴なギモン」
お話し会の中で、ほとんどのギモンに答えることができました。

電磁波は、デタラメな原発と構造が似ていて、嫌になる部分も沢山あります。
結局は経済的な利益やお金と人々の健康を天秤にかけているようなところもあります。

今の社会はデジタル化も進み、電気もどんどん使われています。
身の回りは電磁波だらけです。
僕も、都市部に行くと、かなりの確率で調子が悪くなってしまいます。。。
日常的な肩こり、倦怠感、眼の疲れ。意外と電磁波の影響かも知れません。

しかし、電磁波は対策をすれば、かなり軽減できます。
基本の対策は
アースを取る
離れる
使わない/代替品を使う
遮蔽する

基本的なことを知ることから始めましょう。

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★電磁波お話し会★
僕で良ければ、お話し会の講師対応いたしますので、ご連絡ください。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
beart.nowhere◆gmail.com
◆を@に変更してください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「幼稚園のママ友を集めてやってもらおうかしら」なんてアイディアも出ていました。
8〜10名ぐらい集まってもらえれば、対応できるな〜と思っています。
多少の遠方でも出かけて行きますよ〜。

『デンジハ?身近なヒバクとその対策』(スロービジネススクール有志著)という冊子の全体統括をした関係で、いろいろ分かってきました。

専門家を呼ぶにはハードルが高い。
そんな時は、少し余分に分かっている僕のような人間をお気軽に活用してくださいね。

以上

『ナリワイをつくる』を読んで その2

著者である伊藤さんの議論を読んでいて、「面白い!」と思えたところを自分自身に惹き付けて考えてみた。

「そもそも」
ナリワイを作り出す方法論についても、語られていて、その文脈の中で「日常生活の違和感を見つける」という項目がある。
グローバル化する経済社会やビジネスシーンでは「何故を5回繰り返せ!」というのが王道らしい。筆者は「これは既存の枠組みの中でしか物事を考えられない傾向がある」と述べている。
確かに、「なぜ、車が売れないのか?」という問いは、どうやったら車が売れるのかを前提にしていて、車は既存の枠組みとして維持される。
ナリワイ的には、「そもそも」を問うていくという。「なぜ、車が売れないのか?」と考えるよりも「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」とか、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」じゃなくて「そもそも住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えていくほうがおすすめである。」(p.138)

「問題を引き起こしたマインドセットを用いて、その問題を解決することはできない」とアインシュタインは語ったそうだが、それに通じる話しだと思う。

僕も今のライフスタイルの原点は「そもそも、人間ってこんなに嫌な思いをしてまでお金のために働かなければいけないのだろうか?」という問い掛けだったと思う。
自分に引き付けて考えると、「そもそも冷蔵庫は必要なのか?」「そもそもケータイは持った方が良いのか?」「そもそもトイレが水洗であることが必須なのか?」などなどと問うて来た。
その問いの結果として、冷蔵庫なし、ケータイ不携帯、コンポストトイレといった暮らしのスタイルが生まれてきた。
今の大量生産&大量消費&大量廃棄を前提として、とにかく経済は拡大すべきというのがメインストリームとなっている社会の中で、積極的に「そもそも」と問うていくことが大切だと思う。
ちなみに、その「そもそも」という発想から、社会との関わりの中でナリワイをつくっていくことを筆者は勧めている。

「ローコスト」
暮らしに掛かるコストを減らすこともナリワイの視点からは大切だという。
「モノが溢れている現代社会では、どうでも良いことにお金を使っている。稼ごう稼ごうと血眼になって取り組むよりも、注意深く生活を観察すれば、かなりの支出を生活の楽しさを落とさずに減らすことができるのである。
人生における支出を減らすのは、自分の生活をいじるだけ。
お客さんを捜したりする手間もないから、ナリワイをつくって収入を産むことよりも、圧倒的に簡単なのである。」(p.80-81)
正に、その通りだと思う。そして、支出が減った分だけ、稼ぎ仕事も減らしていけば良いのだ。これは非常にクリエイティブな営みだと思う。

今の社会は色々なことに金が掛かる仕組みにしておいて、人々を消費者に落とし込み、金を使ったその分を稼ぐ必要があるという循環を作り出している。それを断ち切るには、「そもそも」お金を使わないで済ませるということだ。そこでは当人の知恵と工夫が試されると思う。

こういった話しをすると、「経済が回らなくなる」という話しが出てくると思う。けれども、経済とは本来は「人々が幸せに暮らす営みの連鎖」だったはずだ。それが、100万年も汚染物質をまき散らす原発だろうが、経済のために稼働させられてしまう始末。世界中で一番お金が使われているのは軍事費で、2番目が宣伝広告費だそうだ。つまり、それだけ宣伝広告をしなければ売れない、そもそも必要がないものが多いのではないか。こんなデタラメな構造にしがみつき、自然環境を破壊し、途上国や弱い立場の人々にツケを押し付ける経済など、そもそも「成立している」のだろうか?

こういった発想をしていくと、生きていくのに頼るべきは「自然」と「人とのつながり」だと思う。
ナリワイも人とのつながりの中で展開できるものだ。

先日、思い付きで呼び掛けた「庭の無農薬ユズと何かのブツブツ交換」は、意外と反響があって、14軒の方々と交換をした。自然から受け取ったものを、人とのつながりの中で活かすことができた。放っておいたら、腐って落ちるだけだから、活用してもらえて嬉しい。

そして、オーガニックコットンTシャツやアクマキ、無農薬野菜、書籍、醤油モロミ、お米などなど、いろいろなブツがコウカンされてやってきた。こんなことをしながら、これもひとつの僕流のナリワイかしら?などと考えている。
何より、このプロセスと営みがたのしくて豊かだった。
今後も、意識的に僕流のナリワイ的活動を増やしていこうと思う。

===
伊藤洋志(2012)『ナリワイをつくる 人生を盗まれないための働き方』東京書籍。
お勧めです。

『ナリワイをつくる』を読んで その1 

『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』という本を先日、一気に読んだ。
非常に共感できるところが多々有り、「普段、半農半スロービジネス合宿で話していることが、かなり盛り込まれている」と嬉しくなった。

筆者は僕と同じ世代。同時代を生きていて、こういった発信がなされ、しかもそれがけっこう広まっているというのがこれまた嬉しい。

表現されているエッセンスを簡単に僕の目線から紹介したい。
今、多くの人が「仕事」に関して悩んでいると思う。就職活動が上手くいかずに、絶望してしまう学生さんもいるとか。「やりたくもないこと」や「自分の信条に反すること」も「仕事だから」とせざるを得ない人たちもいる。

いつの間にか、今の世の中では、「仕事」とは「雇われてするもの」「自分も周囲もがハッピーじゃなくても、仕方がないもの」となってしまっているようだ。
僕が思うに、そうなってしまう大きな原因のひとつは、「お金がなければ、あなた達は生活ができないぞ」という脅し、あるいは呪縛があると思う。
並行して、暮らしの中に「お金が掛かる仕組み」が組み込まれている。

伊藤さんによれば、大正9年には3500種類の職業が国勢調査にて登録されたという。しかし、現在は2167ほどの登録しかないとのこと。

昔は傘屋や障子や襖(ふすま)貼り、桶屋などなど、人々が暮らすことを中心にして、たくさんの仕事があったに違いない。僕が小学校ぐらいの時には東京の郊外にある団地の商店街に魚屋さんも駄菓子屋さんも、豆腐屋さんも、パン屋さんもあった。それぞれ、個性的で、地域に根ざしていたと思う。多分、暮らしが地域のつながりの中で回っていたのだと思う。
そういった暮らしにまつわる「必要なこと」は大企業が効率化したシステムの中で、「安い」ことを売りにして切り崩して来ている。

僕が生まれ育った地域の駅には小学生時代(25年ぐらい前)は、本当に何もなかった。本を買いに隣の駅まで行かなければいかんぐらいだった。
が、25年経った今、ショッピングモールが3つも立ち並び、本屋も3件ぐらいその中に入っている。そして、駅前は不必要に明るく、駅の近くには高級マンションが建ち並んでいる。そして、地域の小さな仕事は駆逐されてきている。単純化すれば、これも経済のグローバル化の影響ということも出来る。

筆者は、こういった弱肉強食で手段を選ばずに、稼ぐが勝ちという論理の経済社会を渡り歩く「バトルタイプ」と区別した形で「非バトルタイプ」の仕事として「ナリワイ」を提唱している。「すなわち、これからの仕事は、働くことと生活の充実が一致し、心身ともに健康になる仕事でなければならない」(p.6)と言うことだ。

伊藤さんによる「ナリワイ10か条」(p.72)
*やると自分の生活が充実する。
*お客さんをサービスに依存させない。
*自力で考え、生活をつくれる人を増やす。
*個人ではじめられる。
*家賃等の固定費に追われないほうが良い。
*提供する人、される人が仲良くなれる。
*専業じゃないことで、専業より本質的なことができる。
*実感が持てる。
*頑張って売り上げを増やさない。
*自分自身が熱望するものをつくる。

「そうそう、その通り!」と大きくうなずきたくなる10か条だ。
どんどん、自分で付け加えて増やして欲しいとも書いてある。
僕が付け加えるとしたら以下のことかな。

*暮らしも仕事も自然と調和していること。
*未来世代や他の動植物からも歓ばれる、あるいはそれらを害さない暮らしと仕事。
*ナリワイ同士が横の連携をして、一緒に生きる地域を形成していくことにつながる。
*対価は「まっとう」な水準である。
*世の中のデタラメなシステムに相乗りしてそれを強化しないことを意識する。
*お金に依存しない。
*自然や人とのつながりに頼る。
*暮らしの中で自分を見つめたり、内省したり、瞑想したりといったことも大切にする。
*「自分を生きる」ということと、暮らしや仕事が直結している。

まだまだ、いろいろ付け加えたくなる。
仕事と暮らしを切り離さず、自分を生きることと直結したナリワイがどんどん広がると良いと思う。
もう少し具体的に面白いと思ったポイントを追って書いていこう。

>>つづく

書籍データ
伊藤洋志(2012)『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』東京書籍。

わくわくマルシェ@飯塚

今日は、友人が企画している飯塚のわくわくマルシェにてパネラー参加。
「優しい生き方」というのがテーマ。
筑豊で「面白いこと」をやっている4名がずらりと(一名はちょっと遅刻されてましたが。。。)そろい、良い場になりました。

15分で、やっていることとその背景にある考えを話して欲しいとのリクエスト。
チラシには「食の自給」と書いてあったのですが、

自給的な暮らし
お金に依存しないこと
自然に生かされるという感覚
地球1個で足りる、足るを知る暮らし
面倒くさいを越えた工夫や生きる力

といったことをお話しさせていただきました。

他のパネラーの方々の話しも興味深かったです。
「子どもに大切なことを伝える」と言っても、その大人が経験していなかったり、分かっていなかったりすることが多い。その大人が学ぶ学校的なものをやりたいと松岡さん。

フィンランドの教育は試験無し、他者からの評価無し。
独創性を育む教育の話しは清水さんから。

ソウルワークというコンセプトで「とにかくやってみる」というメッセージを山伏姿で伝えてくださった久冨さん。

全体的に、「学ぶ」ということがキーワードだった気がしています。

参加者の方々と一緒にその後「ワールドカフェ形式」で対話。
「やってみる」ということが、大切だと思った。
「一歩前に進んでみようと思った」といった反応も出ていたとのこと

参加者の方々からの反応も聞きながら、対話をしながら、
ビンボーヒマ有りな僕としては、もっともっと学びを深め、
それを丁寧かつ的確に発信していくことの質を高めたいな、と思った次第。
というのも、もっともっと伝えたい届けたいことはたくさんあるのだ。
それを、どうお届けするか?

このブログでの発信も含めて、知識の翻訳というかな、そんなことを意識しようと思う。
もちろん、地に足のついた形での翻訳をしていく。

まぁ、体験を通しての学びがいちばん響くとは思っているけどね。
「やっぱ、一度見学に行きたいね」なんて、つぶやきもお聞きしました。
そろそろ麹を仕込みたいなぁ、と思っているところ。
麹を仕込む会でも企画するかな。

気付きのために〜自然〜

「自然に生かされている」という気付きに近づくために、僕が大切にしていること。
ひとつは、前回書いた「ノイズを減らす」ということ。
もうひとつは、当然だが「自然」の存在。

ノイズから離れたことがない、
常にノイズに囲まれちゃっている人にはなかなか話しが通じない。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているし、
ノイズがない状態を経験していないからだと思う。

東京に暮らしている時の僕は正にそうだった。
あの漠然とした閉塞感と不安は何だったのだろう。

ある人とこんな話しをしている時に
「君の言っていることは、分かる。けど、伝わってこない」と言われたことがある。
その時に「経験」ということの大切さを思った。

僕がラッキーなのは、都市も田舎も両方経験しているということ。
ありがたいことだ。

両方に身を置いてみて、やっぱり自然の近くに生きる方が断然良いと感じる。
僕にとっては。

自然は時に牙をむき脅威にもなるが、
僕の経験上は、自然はかなり優しい。
その中で暮らしているだけで、とても安心感がある。

この安心感こそが、「生かされている」という感覚だと思う。
北の国からというドラマの中で、吾郎さんが
「心配すんな。自然はオマエひとりを食わせるぐらい、なんてこたぁねぇ」といった趣旨のことを語っているらしい。
1粒の米粒が2000粒ほどに増えてくれること、
栽培していないのに畑の中にはアレコレこぼれ種から野菜が育つこと、
野草や山菜が季節のリズムと共に顔を出すこと、
自然が恵んでくれるということだ。
感謝は努力して「する」ものではなく、「湧き出る」ものだということが腑に落ちる。

『森の生活』を書いたヘンリー・D・ソローは
「1日最低4時間は大自然の中を歩きなさい」と語っているらしい。

D・スズキは、1日30分意識的に自然に触れること、外に出ることを30日間続けてみようと提唱している。
そこで生じる変化や嬉しさ、愉しさを感じて欲しいという趣旨。

30 × 30 nature challenge (English only)

すごく良い取り組みだと思う。
愉しみながら自然の中に身を置くというのが良いと思う。
その遊び心の中から、発見や理屈抜きの愉しさが湧き出てくると思う。
そして、自然に感謝の気持ちも。

こういった余裕を常に持って生きていたいと思う。

「みんなが、1年ぐらい農村に住んでみると良い」といった発言を読んだ記憶がある。
都市で暮らすよりもコストは低いし、自然に近いところで暮らすという意味でも良いと思う。自治体レベルでそういった受け入れをしても面白いだろうと思う。

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半農半スロービジネス合宿を12月6〜8日(2泊3日)で開催します。
ここで表現しているようなことを体験的に学べます。

気付きのために〜ノイズ〜

前回、「自然に生かされている」という気付きについて書いた。
この気付きにつながるのに、必要だと僕が思っていることを紹介したい。

ノイズを減らす

今の社会はノイズで溢れかえっている。
騒音、雑音はもちろん、過剰な宣伝広告、メディアが垂れ流す下らない情報などが意識せずとも飛び込んでくる。
正に、耳にも眼にもノイズだ。
それだけではなく、食品を手に取れば、その裏面には数え切れないほどの添加物リスト。
カタカナだらけで、わけが分かんない。コンビニ弁当1個には累計で300ぐらいの添加物が入っている場合もあるらしいよ。
ジャンクフード。これは、口から入ってくるノイズだ。
空気も汚れてるし、水道水には塩素とフッ素が入ってるって。
電磁波はところ構わず飛び交っているし、今や放射性物質まで漂ってるよ。
そして、人間関係もギスギスしてたり、勝つか負けるかの駆け引きがあったり。

ああ、ノイズだらけ。


FBでシェアされていた画像を借りました。

そんなノイズに取り囲まれていると、感受性や気付きの感覚が退化すると思う。
僕もそうだった。感じないことで自分を守るように本能が働くんだ、きっと。
そして、待っているのはストレスと漠然とした閉塞感、生きることに希望を持てない感覚。
それを誤摩化すために、人は横暴になったり、人の気持ちを踏みにじったりするんだろうか。
この状況下で原発推進とかさ。

農山村に移り住み、都市で浴びていたノイズから距離を取れるようになった。
ここにあるのは静寂。自然が運んできてくれる明るさと暗さ。美味しい空気と水。ピュアな野菜とお米。
携帯の基地局が残念ながら近くにあるけど、僕自身は携帯不携帯なので電磁波の影響も軽減されてる。パソコンや家電もアースを取っている。

食べると身体が重くなるから、添加物入りの食品は極力避けている。
まぁ、はっきり言って、美味しくないんだよね。ただ、それだけのこと。
そうしてたら、それらが「まともな食べ物」に見えなくなってきた。

TVなし生活も10年近くになる。
余計な情報が入ってこないし、あの独特のやかましさがないことが嬉しい。
冷蔵庫も置いていない。あの1日中うなっているモーター音ともおさらばした。

ストイックに思えるだろうけれども、そうでは全然ない。
僕にとっての快適さをシンプルに追求していったら、こうなった、というだけ。

ノイズから離れたら、感じるスペースが広がった。
そりゃそうだ、当たり前だ。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているんだから。
そこから解放されたらセンサーは動き出す。

つづく