電磁波のお話し会の報告&お知らせ

先日、電磁波についての「お話し会」をさせていただきました。
ふくおか市民政治ネットワーク北九州さんにて。
11名の方々と一緒に学びました。

そもそも電磁波って何なのか?
健康被害はあるのか?
どう対策したら良いのか?
電磁波と社会の在り方・・・などなど

『デンジハ?身近なヒバクとその対策』を基本テキストにしながら、
電磁波検知器でノートPCを調べたり、
その場でアースを取ってみたり。

みなさん、関心が高く、熱心に聞いてくださり、こちらもやり甲斐がありました。


冒頭で挙げてもらった「素朴なギモン」
お話し会の中で、ほとんどのギモンに答えることができました。

電磁波は、デタラメな原発と構造が似ていて、嫌になる部分も沢山あります。
結局は経済的な利益やお金と人々の健康を天秤にかけているようなところもあります。

今の社会はデジタル化も進み、電気もどんどん使われています。
身の回りは電磁波だらけです。
僕も、都市部に行くと、かなりの確率で調子が悪くなってしまいます。。。
日常的な肩こり、倦怠感、眼の疲れ。意外と電磁波の影響かも知れません。

しかし、電磁波は対策をすれば、かなり軽減できます。
基本の対策は
アースを取る
離れる
使わない/代替品を使う
遮蔽する

基本的なことを知ることから始めましょう。

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★電磁波お話し会★
僕で良ければ、お話し会の講師対応いたしますので、ご連絡ください。

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beart.nowhere◆gmail.com
◆を@に変更してください。
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「幼稚園のママ友を集めてやってもらおうかしら」なんてアイディアも出ていました。
8〜10名ぐらい集まってもらえれば、対応できるな〜と思っています。
多少の遠方でも出かけて行きますよ〜。

『デンジハ?身近なヒバクとその対策』(スロービジネススクール有志著)という冊子の全体統括をした関係で、いろいろ分かってきました。

専門家を呼ぶにはハードルが高い。
そんな時は、少し余分に分かっている僕のような人間をお気軽に活用してくださいね。

以上

『ナリワイをつくる』を読んで その2

著者である伊藤さんの議論を読んでいて、「面白い!」と思えたところを自分自身に惹き付けて考えてみた。

「そもそも」
ナリワイを作り出す方法論についても、語られていて、その文脈の中で「日常生活の違和感を見つける」という項目がある。
グローバル化する経済社会やビジネスシーンでは「何故を5回繰り返せ!」というのが王道らしい。筆者は「これは既存の枠組みの中でしか物事を考えられない傾向がある」と述べている。
確かに、「なぜ、車が売れないのか?」という問いは、どうやったら車が売れるのかを前提にしていて、車は既存の枠組みとして維持される。
ナリワイ的には、「そもそも」を問うていくという。「なぜ、車が売れないのか?」と考えるよりも「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」とか、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」じゃなくて「そもそも住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えていくほうがおすすめである。」(p.138)

「問題を引き起こしたマインドセットを用いて、その問題を解決することはできない」とアインシュタインは語ったそうだが、それに通じる話しだと思う。

僕も今のライフスタイルの原点は「そもそも、人間ってこんなに嫌な思いをしてまでお金のために働かなければいけないのだろうか?」という問い掛けだったと思う。
自分に引き付けて考えると、「そもそも冷蔵庫は必要なのか?」「そもそもケータイは持った方が良いのか?」「そもそもトイレが水洗であることが必須なのか?」などなどと問うて来た。
その問いの結果として、冷蔵庫なし、ケータイ不携帯、コンポストトイレといった暮らしのスタイルが生まれてきた。
今の大量生産&大量消費&大量廃棄を前提として、とにかく経済は拡大すべきというのがメインストリームとなっている社会の中で、積極的に「そもそも」と問うていくことが大切だと思う。
ちなみに、その「そもそも」という発想から、社会との関わりの中でナリワイをつくっていくことを筆者は勧めている。

「ローコスト」
暮らしに掛かるコストを減らすこともナリワイの視点からは大切だという。
「モノが溢れている現代社会では、どうでも良いことにお金を使っている。稼ごう稼ごうと血眼になって取り組むよりも、注意深く生活を観察すれば、かなりの支出を生活の楽しさを落とさずに減らすことができるのである。
人生における支出を減らすのは、自分の生活をいじるだけ。
お客さんを捜したりする手間もないから、ナリワイをつくって収入を産むことよりも、圧倒的に簡単なのである。」(p.80-81)
正に、その通りだと思う。そして、支出が減った分だけ、稼ぎ仕事も減らしていけば良いのだ。これは非常にクリエイティブな営みだと思う。

今の社会は色々なことに金が掛かる仕組みにしておいて、人々を消費者に落とし込み、金を使ったその分を稼ぐ必要があるという循環を作り出している。それを断ち切るには、「そもそも」お金を使わないで済ませるということだ。そこでは当人の知恵と工夫が試されると思う。

こういった話しをすると、「経済が回らなくなる」という話しが出てくると思う。けれども、経済とは本来は「人々が幸せに暮らす営みの連鎖」だったはずだ。それが、100万年も汚染物質をまき散らす原発だろうが、経済のために稼働させられてしまう始末。世界中で一番お金が使われているのは軍事費で、2番目が宣伝広告費だそうだ。つまり、それだけ宣伝広告をしなければ売れない、そもそも必要がないものが多いのではないか。こんなデタラメな構造にしがみつき、自然環境を破壊し、途上国や弱い立場の人々にツケを押し付ける経済など、そもそも「成立している」のだろうか?

こういった発想をしていくと、生きていくのに頼るべきは「自然」と「人とのつながり」だと思う。
ナリワイも人とのつながりの中で展開できるものだ。

先日、思い付きで呼び掛けた「庭の無農薬ユズと何かのブツブツ交換」は、意外と反響があって、14軒の方々と交換をした。自然から受け取ったものを、人とのつながりの中で活かすことができた。放っておいたら、腐って落ちるだけだから、活用してもらえて嬉しい。

そして、オーガニックコットンTシャツやアクマキ、無農薬野菜、書籍、醤油モロミ、お米などなど、いろいろなブツがコウカンされてやってきた。こんなことをしながら、これもひとつの僕流のナリワイかしら?などと考えている。
何より、このプロセスと営みがたのしくて豊かだった。
今後も、意識的に僕流のナリワイ的活動を増やしていこうと思う。

===
伊藤洋志(2012)『ナリワイをつくる 人生を盗まれないための働き方』東京書籍。
お勧めです。

『ナリワイをつくる』を読んで その1 

『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』という本を先日、一気に読んだ。
非常に共感できるところが多々有り、「普段、半農半スロービジネス合宿で話していることが、かなり盛り込まれている」と嬉しくなった。

筆者は僕と同じ世代。同時代を生きていて、こういった発信がなされ、しかもそれがけっこう広まっているというのがこれまた嬉しい。

表現されているエッセンスを簡単に僕の目線から紹介したい。
今、多くの人が「仕事」に関して悩んでいると思う。就職活動が上手くいかずに、絶望してしまう学生さんもいるとか。「やりたくもないこと」や「自分の信条に反すること」も「仕事だから」とせざるを得ない人たちもいる。

いつの間にか、今の世の中では、「仕事」とは「雇われてするもの」「自分も周囲もがハッピーじゃなくても、仕方がないもの」となってしまっているようだ。
僕が思うに、そうなってしまう大きな原因のひとつは、「お金がなければ、あなた達は生活ができないぞ」という脅し、あるいは呪縛があると思う。
並行して、暮らしの中に「お金が掛かる仕組み」が組み込まれている。

伊藤さんによれば、大正9年には3500種類の職業が国勢調査にて登録されたという。しかし、現在は2167ほどの登録しかないとのこと。

昔は傘屋や障子や襖(ふすま)貼り、桶屋などなど、人々が暮らすことを中心にして、たくさんの仕事があったに違いない。僕が小学校ぐらいの時には東京の郊外にある団地の商店街に魚屋さんも駄菓子屋さんも、豆腐屋さんも、パン屋さんもあった。それぞれ、個性的で、地域に根ざしていたと思う。多分、暮らしが地域のつながりの中で回っていたのだと思う。
そういった暮らしにまつわる「必要なこと」は大企業が効率化したシステムの中で、「安い」ことを売りにして切り崩して来ている。

僕が生まれ育った地域の駅には小学生時代(25年ぐらい前)は、本当に何もなかった。本を買いに隣の駅まで行かなければいかんぐらいだった。
が、25年経った今、ショッピングモールが3つも立ち並び、本屋も3件ぐらいその中に入っている。そして、駅前は不必要に明るく、駅の近くには高級マンションが建ち並んでいる。そして、地域の小さな仕事は駆逐されてきている。単純化すれば、これも経済のグローバル化の影響ということも出来る。

筆者は、こういった弱肉強食で手段を選ばずに、稼ぐが勝ちという論理の経済社会を渡り歩く「バトルタイプ」と区別した形で「非バトルタイプ」の仕事として「ナリワイ」を提唱している。「すなわち、これからの仕事は、働くことと生活の充実が一致し、心身ともに健康になる仕事でなければならない」(p.6)と言うことだ。

伊藤さんによる「ナリワイ10か条」(p.72)
*やると自分の生活が充実する。
*お客さんをサービスに依存させない。
*自力で考え、生活をつくれる人を増やす。
*個人ではじめられる。
*家賃等の固定費に追われないほうが良い。
*提供する人、される人が仲良くなれる。
*専業じゃないことで、専業より本質的なことができる。
*実感が持てる。
*頑張って売り上げを増やさない。
*自分自身が熱望するものをつくる。

「そうそう、その通り!」と大きくうなずきたくなる10か条だ。
どんどん、自分で付け加えて増やして欲しいとも書いてある。
僕が付け加えるとしたら以下のことかな。

*暮らしも仕事も自然と調和していること。
*未来世代や他の動植物からも歓ばれる、あるいはそれらを害さない暮らしと仕事。
*ナリワイ同士が横の連携をして、一緒に生きる地域を形成していくことにつながる。
*対価は「まっとう」な水準である。
*世の中のデタラメなシステムに相乗りしてそれを強化しないことを意識する。
*お金に依存しない。
*自然や人とのつながりに頼る。
*暮らしの中で自分を見つめたり、内省したり、瞑想したりといったことも大切にする。
*「自分を生きる」ということと、暮らしや仕事が直結している。

まだまだ、いろいろ付け加えたくなる。
仕事と暮らしを切り離さず、自分を生きることと直結したナリワイがどんどん広がると良いと思う。
もう少し具体的に面白いと思ったポイントを追って書いていこう。

>>つづく

書籍データ
伊藤洋志(2012)『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』東京書籍。

わくわくマルシェ@飯塚

今日は、友人が企画している飯塚のわくわくマルシェにてパネラー参加。
「優しい生き方」というのがテーマ。
筑豊で「面白いこと」をやっている4名がずらりと(一名はちょっと遅刻されてましたが。。。)そろい、良い場になりました。

15分で、やっていることとその背景にある考えを話して欲しいとのリクエスト。
チラシには「食の自給」と書いてあったのですが、

自給的な暮らし
お金に依存しないこと
自然に生かされるという感覚
地球1個で足りる、足るを知る暮らし
面倒くさいを越えた工夫や生きる力

といったことをお話しさせていただきました。

他のパネラーの方々の話しも興味深かったです。
「子どもに大切なことを伝える」と言っても、その大人が経験していなかったり、分かっていなかったりすることが多い。その大人が学ぶ学校的なものをやりたいと松岡さん。

フィンランドの教育は試験無し、他者からの評価無し。
独創性を育む教育の話しは清水さんから。

ソウルワークというコンセプトで「とにかくやってみる」というメッセージを山伏姿で伝えてくださった久冨さん。

全体的に、「学ぶ」ということがキーワードだった気がしています。

参加者の方々と一緒にその後「ワールドカフェ形式」で対話。
「やってみる」ということが、大切だと思った。
「一歩前に進んでみようと思った」といった反応も出ていたとのこと

参加者の方々からの反応も聞きながら、対話をしながら、
ビンボーヒマ有りな僕としては、もっともっと学びを深め、
それを丁寧かつ的確に発信していくことの質を高めたいな、と思った次第。
というのも、もっともっと伝えたい届けたいことはたくさんあるのだ。
それを、どうお届けするか?

このブログでの発信も含めて、知識の翻訳というかな、そんなことを意識しようと思う。
もちろん、地に足のついた形での翻訳をしていく。

まぁ、体験を通しての学びがいちばん響くとは思っているけどね。
「やっぱ、一度見学に行きたいね」なんて、つぶやきもお聞きしました。
そろそろ麹を仕込みたいなぁ、と思っているところ。
麹を仕込む会でも企画するかな。

気付きのために〜自然〜

「自然に生かされている」という気付きに近づくために、僕が大切にしていること。
ひとつは、前回書いた「ノイズを減らす」ということ。
もうひとつは、当然だが「自然」の存在。

ノイズから離れたことがない、
常にノイズに囲まれちゃっている人にはなかなか話しが通じない。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているし、
ノイズがない状態を経験していないからだと思う。

東京に暮らしている時の僕は正にそうだった。
あの漠然とした閉塞感と不安は何だったのだろう。

ある人とこんな話しをしている時に
「君の言っていることは、分かる。けど、伝わってこない」と言われたことがある。
その時に「経験」ということの大切さを思った。

僕がラッキーなのは、都市も田舎も両方経験しているということ。
ありがたいことだ。

両方に身を置いてみて、やっぱり自然の近くに生きる方が断然良いと感じる。
僕にとっては。

自然は時に牙をむき脅威にもなるが、
僕の経験上は、自然はかなり優しい。
その中で暮らしているだけで、とても安心感がある。

この安心感こそが、「生かされている」という感覚だと思う。
北の国からというドラマの中で、吾郎さんが
「心配すんな。自然はオマエひとりを食わせるぐらい、なんてこたぁねぇ」といった趣旨のことを語っているらしい。
1粒の米粒が2000粒ほどに増えてくれること、
栽培していないのに畑の中にはアレコレこぼれ種から野菜が育つこと、
野草や山菜が季節のリズムと共に顔を出すこと、
自然が恵んでくれるということだ。
感謝は努力して「する」ものではなく、「湧き出る」ものだということが腑に落ちる。

『森の生活』を書いたヘンリー・D・ソローは
「1日最低4時間は大自然の中を歩きなさい」と語っているらしい。

D・スズキは、1日30分意識的に自然に触れること、外に出ることを30日間続けてみようと提唱している。
そこで生じる変化や嬉しさ、愉しさを感じて欲しいという趣旨。

30 × 30 nature challenge (English only)

すごく良い取り組みだと思う。
愉しみながら自然の中に身を置くというのが良いと思う。
その遊び心の中から、発見や理屈抜きの愉しさが湧き出てくると思う。
そして、自然に感謝の気持ちも。

こういった余裕を常に持って生きていたいと思う。

「みんなが、1年ぐらい農村に住んでみると良い」といった発言を読んだ記憶がある。
都市で暮らすよりもコストは低いし、自然に近いところで暮らすという意味でも良いと思う。自治体レベルでそういった受け入れをしても面白いだろうと思う。

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半農半スロービジネス合宿を12月6〜8日(2泊3日)で開催します。
ここで表現しているようなことを体験的に学べます。

気付きのために〜ノイズ〜

前回、「自然に生かされている」という気付きについて書いた。
この気付きにつながるのに、必要だと僕が思っていることを紹介したい。

ノイズを減らす

今の社会はノイズで溢れかえっている。
騒音、雑音はもちろん、過剰な宣伝広告、メディアが垂れ流す下らない情報などが意識せずとも飛び込んでくる。
正に、耳にも眼にもノイズだ。
それだけではなく、食品を手に取れば、その裏面には数え切れないほどの添加物リスト。
カタカナだらけで、わけが分かんない。コンビニ弁当1個には累計で300ぐらいの添加物が入っている場合もあるらしいよ。
ジャンクフード。これは、口から入ってくるノイズだ。
空気も汚れてるし、水道水には塩素とフッ素が入ってるって。
電磁波はところ構わず飛び交っているし、今や放射性物質まで漂ってるよ。
そして、人間関係もギスギスしてたり、勝つか負けるかの駆け引きがあったり。

ああ、ノイズだらけ。


FBでシェアされていた画像を借りました。

そんなノイズに取り囲まれていると、感受性や気付きの感覚が退化すると思う。
僕もそうだった。感じないことで自分を守るように本能が働くんだ、きっと。
そして、待っているのはストレスと漠然とした閉塞感、生きることに希望を持てない感覚。
それを誤摩化すために、人は横暴になったり、人の気持ちを踏みにじったりするんだろうか。
この状況下で原発推進とかさ。

農山村に移り住み、都市で浴びていたノイズから距離を取れるようになった。
ここにあるのは静寂。自然が運んできてくれる明るさと暗さ。美味しい空気と水。ピュアな野菜とお米。
携帯の基地局が残念ながら近くにあるけど、僕自身は携帯不携帯なので電磁波の影響も軽減されてる。パソコンや家電もアースを取っている。

食べると身体が重くなるから、添加物入りの食品は極力避けている。
まぁ、はっきり言って、美味しくないんだよね。ただ、それだけのこと。
そうしてたら、それらが「まともな食べ物」に見えなくなってきた。

TVなし生活も10年近くになる。
余計な情報が入ってこないし、あの独特のやかましさがないことが嬉しい。
冷蔵庫も置いていない。あの1日中うなっているモーター音ともおさらばした。

ストイックに思えるだろうけれども、そうでは全然ない。
僕にとっての快適さをシンプルに追求していったら、こうなった、というだけ。

ノイズから離れたら、感じるスペースが広がった。
そりゃそうだ、当たり前だ。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているんだから。
そこから解放されたらセンサーは動き出す。

つづく

「自然に生かされている」という気付き

先日書いたブログの記事「2つの視点 MAN/Chaplin」。
2つの対照的な人間像を紹介したもの。
フェイスブック上でいくつか反応をいただきました。その中で、

「目 の前のありとあらゆるものに命を認める生き方が鍵だと思います(尊敬する野口法蔵、ティクナットハンも言っています)。頭では理解できているんだけど、こ の認識はヴィパッサナー的な認識の仕方を深めることで(もしくは他の方法:稲刈りとか)、実感を伴って体感できるものなのでしょうか?」

という質問をいただきました。

頭では理解できるけれども、腑に落ちない。あるいは、具体的な行動レベルでの変容が難しい。
こういうことって、僕の中にもたくさんあります。皆さんの中にもたくさんあるんじゃないかな。

この質問に応えるべく書いてみたい。

僕は「全てはつながっている」「人間も自然の一部」というディープエコロジー的な考え方と感覚を持っています。

サティシュ・クマールさんのスタンスにはとても親近感を覚えます。

こちらの動画「エコロジーとエコノミー」もぜひご覧ください。

都会(と言っても郊外でしたが)で育っているので、自然と身近な暮らしではけっしてなかった20代前半。仕事で農山村を駆け回るうちに、自然ということが身近になった。
農村に移り住んで、田畑に働きかけているうちに、なんだか不思議な感覚が自分の中に芽生え始めた。
言葉にすれば「自然に生かされている」ということ。あるいは、「圧倒的な安心感」。それが、考えとしてではなく、感覚として自分の中にあった。あるいは、それに「気付いた」ということ。


1粒の種モミが、これだけのお米になる(横向きの赤米は1株分=つまり、元は1粒)

1粒の種モミが2000粒のお米になる。「米を作る」などと言うのは本当におこがましく、僕はただ環境を整えているだけ。「百姓は稲を作らず、田を作る」という言葉があり、その通りだと思う。水、土壌、太陽の光、微生物、昆虫、風、いろいろなものが重層的に関わる中で、稲が育つ。


田んぼには小さな貝も生息している。

そして、育った稲は僕のいのちになっていく。生かされているから、キレイに生きたいと思うようにもなった。

この感覚、気付きに多くの人にもアクセスして欲しいと思っている。半農半SB合宿をやっているひとつの理由はココにある。
合宿で意識している「仕掛け」、僕が日常で意識していることを追って紹介していこう。

2つの視点 MAN / Chaplin

2つの動画に見る人間性
最近、見る機会があった動画2つについて。

ひとつは“MAN” by Steve Cutts

3分半ぐらいで、今、人間がしでかしていることを上手く表現している。
見ていて、ちょっと悲しく、胸くそ悪くなった。
「でも、これが現実だよなぁ」という気持ちもあった。

自然と切り離されて、自分が正しいと思い上がり、傍若無人に振る舞う人類。
なんで、こうなってしまっているのだろう?
多分、自分にもそのエッセンスの一部は内在している。

もうひとつの動画は 「チャップリンの史上ベストスピーチ」

このスピーチは、高校生の英語の授業で暗記した覚えがある。
何となく、自分の中にも残っているモノだ。
改めて見ると、すごく勇気づけられる。
人類の可能性を語ってくれている。

どちらが本質か、ということではない。
どちらも、可能性だと思う。
どちらの可能性を選ぶのか?
ひとりひとりの選択。
そして、一人ひとりの選択が潜在意識も通過して人類の選択になると思う。

ひとつの同じ現象を経験したり、知覚しても、ひとりは希望を見て、ひとりは絶望を見る。
それは、ひとそれぞれ。

けれども、田んぼで仕事をしながら、空を見ながら、美味しい水を飲みながら思う。
自然の調和を感じられる環境に身を置いたら、
どちらが本質的か、自然の理に沿っているか、肌感覚で自ずから分かる。

時間と豊かさ

2月で7年続けさせてもらった職場を離職した。
その後、毎日が日曜日状態。
今までもそういったフレーズは使っていたけれども、本当に毎日が日曜日になると、感覚が全然違う。
「ビンボーヒマ有り」ということで、時間の流れがとてもゆっくりしている。

この2週間ぐらいはひたすら稲刈りをしている。
そんなに広い田んぼではないけれども、ゆっくりやっているから時間がかかる。
けど、時間があるから全く問題無し。

この7年の間、アレコレと手を出して忙しくしていたので、「ヒマ無し」「余裕無し」だった。
時間があると色々なことが見えてくるし、やってみることができる。

庭にある柿をもいで食べること。これまでは、気付くと大分落ちてしまっていた柿。今は、時間があるから採って食べることができる。
これだけ、柿がたわわに実っていると、どんどんお裾分けしたくなる。これを売ろうという気にすらならない。不思議な感覚。

集落のおじいさんのイチョウの木。
先日、作業をしているおじいさんが僕を見つけて声を掛けてくれた。
「ゴトー君、今日はおるんかね。休みか?あんた、ギンナン要らんかね?落ちてるのを拾って良いぞ。ワシが必要な分はこんだけあれば、足りるからなぁ。落ちたままだと気になる。取ってくれ」と。
ということで、今年はコンテナ1杯ギンナン確保。まだまだ落ちている。もう少し確保しようかな。
この樹はおじいさんが35歳ぐらいの時に植えたそうだ。もう、47年ぐらい生きている。ここにも、時間の流れ。

BDFの製造
ディーゼル車を動かすために、バイオディーゼル燃料を仕込んでいる。
廃油をいただいてきて、それを化学反応させて、燃料にする。
それなりに、時間と手間が掛かる。けれども、化石燃料ではなく、再生燃料(植物性)で移動できることの歓びが上回る。これも、時間があるから出来ていることでもある。

稲刈り
コンバインやバインダーで刈ってしまえば、おそらく1時間もかからず、全て終わるだろう広さ。時間があると、じっくりイネと向き合い、季節を感じ、風を感じ、虫の声に聞き入る。そんな時間がとても豊かで幸せなのだ。

空を見上げる
時間があると、夕焼けをじっくり眺めたり、珍しい雲を眺めたり。
 

生きるって、そもそもこういうことなのではないか?
仕事自体は嫌いじゃなかったし、意義深いものだった。
けれども、自分を生きるという点からすると、より今のスタイルが本質的だ。

これからの僕の世界では、週2日働いて、後は農作業をしたり、暮らしの営みに従事する。それがスタンダードになるようにデザインしたい。
それを支えるのは不労収入や株で大もうけ、ではない。そんなタマス的な営みには興味がないし、自分の精神に良くないことが明確に分かっている。
よりサトヴィックな営み。足るを知るこころと実践、支出を減らす具体的な工夫が大切になってくる。そして、それが僕の歓びにつながる。

時間があると、気付きも増える。
まぁ、ゆっくりお茶でも飲みましょう。