食を断つ

敢えて「食べない」という行為を通して「食べる」ことを見つめ直す。
僕にとっての断食とはそういったもの。

今年で7回目の60時間断食が終了した。
最初の2年は断食道場での合宿に参加していたが、途中から
「ひとりでやれるのでは?」と思いアレコレとリサーチ。
2回の経験もあるし、何とかなるな、と思い、その後は自分一人で自宅でやっている。

敢えて食を断ってみるという「行為」が意外と新鮮で発見も多い。多くの人に経験して欲しいと思う。

僕の場合は、大晦日から食を断つ。元旦も抜いて、2日の午前中に軽く食事をする。トータルで約60時間「食べない」。
お茶(身体を温める番茶など)と塩は摂る。
人間この程度の水分と塩があれば、数日は生きていけるというリアルな経験にもなる。

「食べない」ことをしつつ、
1年を丁寧に振り返ったり、
読書をしたり、
気になっていたネットの動画や映画を見たり、
瞑想をしたり、
日記を書いたり、などなど。
僕は、かなりマイペースにゆっくり過ごす。
そして、たっぷりの睡眠。たくさん眠ると、その分「食べない」ことへの意識を使わなくて済むし。意外と、夢の中は「食べる」ことオンパレードだったりもするけど。

もちろん、辛さもある。
だるさが強いし、身体のどっかしらが痛くなったりするし、
やっぱり食べたいし、動きたくなくなるし、
世間は御節で乾杯なわけで。。。
けれども、「これがずっと続くわけではない」と分かっていれば乗り越えられる。

「わざわざ正月にせんでも」と良く言われる。実は、僕も少しそう思っている。けれども、まとめて3日間あまり外部から干渉されずに時間を確保できるタイミングって意外と少ない。正月はその点、もってこいなのだ。

60時間「食べない」を続けた後の、食事は「ふろふき大根」「梅干し」「生野菜」が欠かせない。リサーチした時にこの情報を見つけて、それ以来、このメニューでやっている。ちょうど、畑に大根があるのでちょうど良い。

ふろふき大根のスープを口にした時の、何とも言えない安心感と暖かさ、味の奥深さは感動的だ。
そして、体中にエネルギーが満ちてくる感覚が毎年新鮮。
「食べ物がいのちの源なんだ」ってことが、正に「腑に落ちる」瞬間。
そして、「いのちでいのちが生かされている」というシンプルな気付き。

「2日断ったら、倍の日数をかけて通常食に戻す」というのが鉄則らしい。断食明けは、「餓鬼道」に陥り易いので注意するように、と断食道場では再三注意をされた。
僕の場合は、玄米がゆから始めて、野菜のスープなどシンプルなもので戻していく。といっても、いつも僕の食卓はシンプルな野菜料理しかないのだけども。

断食をすると、ビックリするぐらい違うのが肌のスベスベ感。
朝、顔を洗う時に驚くほどスベスベしている。
そして、僕の場合は嗅覚が特に鋭くなる。味覚ももちろん。五感が冴えるのだ。
排毒作用もあるので、身体にもすこぶる良い。

「生きる」根っこにある「食べる」ということを、敢えて「食べない」ということで見つめ直す断食、お勧めです。
地球上には社会状況によって「食べられない」人がいることも意識しつつ、
飽食ニッポンで「足るを知る」ということをリアルに体感する時間にもなる。

半農半スロービジネスという生き方 お話し会@福岡古賀

先日、新宮町でさせていただいたお話し会が、「意外と」好評で、古賀市にあるオーガニック広場ひふみさんでもさせていただくことに。
自分で言うのもなんですが、意外と面白い&深淵なる話しをしますよ。

個人的にはお話しした後の質疑で色々みなさんと交流するのが愉しみです♪

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半農半スロービジネスという生き方~脱モアモア教へ向けて~
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話し手:後藤 彰(自然と暮らしと平和のがっこう)

日時:1月22日 14時~15時半
場所:オーガニック広場ひふみ
参加費:1000円(ワンドリンク付き)
予約&お問い合わせ:ひふみ
tel: 092-944-5755

 

ヒトとして生きるのに、本当に必要なものって何だろう?
真剣にそう考えると、意外と自分にとって必要なものって限られています。
僕の場合は、キレイな水、空気、お日様の光と熱、森、美味しいお米と野菜、ひととのつながり、ちょっとビールetc。
東京出身、田川郡赤村に住み8年目。

 

冷蔵庫なし、電気代は月500円代、ガス代も月1000円程度、野菜とお米は田畑が供給してくれます。
お風呂と暖房の燃料は薪。
車の燃料も自分で廃油を加工&精製。
支出が少ないので、収入が少なくても問題無し。
時間がたっぷりあり豊かな暮らし。
自然に寄り沿った暮らしを営みながら、
自分もハッピー、地球や世界もハッピーな半農半スロービジネスというスタイル。
当日は、何故このライフスタイルを営んでいるかという理由と具体的にやっていることをスライドや動画も交えてご紹介します。
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アフロダンスのレッスン

12月の新月の日からアフロダンス教室に通っている。赤村から車で20分ほどの行橋の会場にて。
アフリカンダンスのレッスンだ。

数年前にマリ製のけっこう本格的なジャンベを購入して、適当に叩いていた。
「太鼓に合わせて踊りましょう」といったPRもあったので興味もあり参加することに。身体の使い方、身体を動かすこと自体にも惹かれた。
ちなみに、これまで踊りとはあまり縁がない。小中学校でやったぐらいかな。

今日で1ヶ月=4回の参加となった。
これが、とっても面白い&解放感がある。
だんだん、身体が覚えてくるのか、自分自身で動きがスムーズになってきているのが分かる。
頭で理解しようとするのではなく、感覚を頼りに動く。
初めは、ぜんぜんできなかったステップも徐々にできるようになってくる。
特に復習をしているわけでもないのだが、身体が馴染むんだろうね。
その事自体も面白い。

ダンス自体は結構ハード。
簡単そうに見えても、全身を使って踊るので身体には良い刺激。

普段は「頭で理解してから動く」ということがほとんどだが、ダンスはとにかく身体を動かして、身体で感じる。
いつもは使っていない回路を使うというのも自分の領域が広がる感じがしてすごく愉しい。
多分、自分でイメージしているよりも、身体は動いていないのだろうけれども、徐々に可動域が広がっている気もしてる。身体が自分に戻ってくる感じもする。分かるかな?


薪ストーブの窓に現れたダンスの精霊!?

かおるさん(先生)もかなりエネルギッシュに動き回り、的確にポイントを伝えてくれるので分かり易い。何より、自身がすっごく愉しそうにイキイキと踊っているのが素敵。
今日はステップが分からず混乱していたら、皆で手をつないで「ステップを感じて!」と。不思議と、手をつないでステップを踏むと、ただ見ながら真似ようとするよりも腑に落ち易い。

こうして定期的に身体を動かしていたら、より健康になるわなぁ、と思っている。
アフロダンスは正に「動」の身体性。滞りも解消してくれる。
何より無心で全身を動かし、汗かいて、たくさん呼吸して、たっぷり笑って。幸せな時間だよ。

普段の生活の中にも取入れたいな〜、と思えてきちゃう。
最近、なんだか体調の波が激しいので、ダンスで邪気を吹っ飛ばしたい。

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かおるさん(先生)のブログ:興味の有る方は要チェックです。
ダンスクラス始めます

『ナリワイをつくる』を読んで その1 

『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』という本を先日、一気に読んだ。
非常に共感できるところが多々有り、「普段、半農半スロービジネス合宿で話していることが、かなり盛り込まれている」と嬉しくなった。

筆者は僕と同じ世代。同時代を生きていて、こういった発信がなされ、しかもそれがけっこう広まっているというのがこれまた嬉しい。

表現されているエッセンスを簡単に僕の目線から紹介したい。
今、多くの人が「仕事」に関して悩んでいると思う。就職活動が上手くいかずに、絶望してしまう学生さんもいるとか。「やりたくもないこと」や「自分の信条に反すること」も「仕事だから」とせざるを得ない人たちもいる。

いつの間にか、今の世の中では、「仕事」とは「雇われてするもの」「自分も周囲もがハッピーじゃなくても、仕方がないもの」となってしまっているようだ。
僕が思うに、そうなってしまう大きな原因のひとつは、「お金がなければ、あなた達は生活ができないぞ」という脅し、あるいは呪縛があると思う。
並行して、暮らしの中に「お金が掛かる仕組み」が組み込まれている。

伊藤さんによれば、大正9年には3500種類の職業が国勢調査にて登録されたという。しかし、現在は2167ほどの登録しかないとのこと。

昔は傘屋や障子や襖(ふすま)貼り、桶屋などなど、人々が暮らすことを中心にして、たくさんの仕事があったに違いない。僕が小学校ぐらいの時には東京の郊外にある団地の商店街に魚屋さんも駄菓子屋さんも、豆腐屋さんも、パン屋さんもあった。それぞれ、個性的で、地域に根ざしていたと思う。多分、暮らしが地域のつながりの中で回っていたのだと思う。
そういった暮らしにまつわる「必要なこと」は大企業が効率化したシステムの中で、「安い」ことを売りにして切り崩して来ている。

僕が生まれ育った地域の駅には小学生時代(25年ぐらい前)は、本当に何もなかった。本を買いに隣の駅まで行かなければいかんぐらいだった。
が、25年経った今、ショッピングモールが3つも立ち並び、本屋も3件ぐらいその中に入っている。そして、駅前は不必要に明るく、駅の近くには高級マンションが建ち並んでいる。そして、地域の小さな仕事は駆逐されてきている。単純化すれば、これも経済のグローバル化の影響ということも出来る。

筆者は、こういった弱肉強食で手段を選ばずに、稼ぐが勝ちという論理の経済社会を渡り歩く「バトルタイプ」と区別した形で「非バトルタイプ」の仕事として「ナリワイ」を提唱している。「すなわち、これからの仕事は、働くことと生活の充実が一致し、心身ともに健康になる仕事でなければならない」(p.6)と言うことだ。

伊藤さんによる「ナリワイ10か条」(p.72)
*やると自分の生活が充実する。
*お客さんをサービスに依存させない。
*自力で考え、生活をつくれる人を増やす。
*個人ではじめられる。
*家賃等の固定費に追われないほうが良い。
*提供する人、される人が仲良くなれる。
*専業じゃないことで、専業より本質的なことができる。
*実感が持てる。
*頑張って売り上げを増やさない。
*自分自身が熱望するものをつくる。

「そうそう、その通り!」と大きくうなずきたくなる10か条だ。
どんどん、自分で付け加えて増やして欲しいとも書いてある。
僕が付け加えるとしたら以下のことかな。

*暮らしも仕事も自然と調和していること。
*未来世代や他の動植物からも歓ばれる、あるいはそれらを害さない暮らしと仕事。
*ナリワイ同士が横の連携をして、一緒に生きる地域を形成していくことにつながる。
*対価は「まっとう」な水準である。
*世の中のデタラメなシステムに相乗りしてそれを強化しないことを意識する。
*お金に依存しない。
*自然や人とのつながりに頼る。
*暮らしの中で自分を見つめたり、内省したり、瞑想したりといったことも大切にする。
*「自分を生きる」ということと、暮らしや仕事が直結している。

まだまだ、いろいろ付け加えたくなる。
仕事と暮らしを切り離さず、自分を生きることと直結したナリワイがどんどん広がると良いと思う。
もう少し具体的に面白いと思ったポイントを追って書いていこう。

>>つづく

書籍データ
伊藤洋志(2012)『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』東京書籍。

気付きのために〜ノイズ〜

前回、「自然に生かされている」という気付きについて書いた。
この気付きにつながるのに、必要だと僕が思っていることを紹介したい。

ノイズを減らす

今の社会はノイズで溢れかえっている。
騒音、雑音はもちろん、過剰な宣伝広告、メディアが垂れ流す下らない情報などが意識せずとも飛び込んでくる。
正に、耳にも眼にもノイズだ。
それだけではなく、食品を手に取れば、その裏面には数え切れないほどの添加物リスト。
カタカナだらけで、わけが分かんない。コンビニ弁当1個には累計で300ぐらいの添加物が入っている場合もあるらしいよ。
ジャンクフード。これは、口から入ってくるノイズだ。
空気も汚れてるし、水道水には塩素とフッ素が入ってるって。
電磁波はところ構わず飛び交っているし、今や放射性物質まで漂ってるよ。
そして、人間関係もギスギスしてたり、勝つか負けるかの駆け引きがあったり。

ああ、ノイズだらけ。


FBでシェアされていた画像を借りました。

そんなノイズに取り囲まれていると、感受性や気付きの感覚が退化すると思う。
僕もそうだった。感じないことで自分を守るように本能が働くんだ、きっと。
そして、待っているのはストレスと漠然とした閉塞感、生きることに希望を持てない感覚。
それを誤摩化すために、人は横暴になったり、人の気持ちを踏みにじったりするんだろうか。
この状況下で原発推進とかさ。

農山村に移り住み、都市で浴びていたノイズから距離を取れるようになった。
ここにあるのは静寂。自然が運んできてくれる明るさと暗さ。美味しい空気と水。ピュアな野菜とお米。
携帯の基地局が残念ながら近くにあるけど、僕自身は携帯不携帯なので電磁波の影響も軽減されてる。パソコンや家電もアースを取っている。

食べると身体が重くなるから、添加物入りの食品は極力避けている。
まぁ、はっきり言って、美味しくないんだよね。ただ、それだけのこと。
そうしてたら、それらが「まともな食べ物」に見えなくなってきた。

TVなし生活も10年近くになる。
余計な情報が入ってこないし、あの独特のやかましさがないことが嬉しい。
冷蔵庫も置いていない。あの1日中うなっているモーター音ともおさらばした。

ストイックに思えるだろうけれども、そうでは全然ない。
僕にとっての快適さをシンプルに追求していったら、こうなった、というだけ。

ノイズから離れたら、感じるスペースが広がった。
そりゃそうだ、当たり前だ。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているんだから。
そこから解放されたらセンサーは動き出す。

つづく