7 Generations Walk

3年前、奈良の天河から和歌山の新宮までのウォークに1週間程ご一緒させてもらった 7 G walk
歩いている時は相当キツかったけど、今では良い思い出&経験となっている。

尊敬するサティシュ・クマール氏は「現代社会の中で、歩くことが無くなり、良い哲学が生まれなくなった」といったようなことを発言していた。
歩くことと考えること、感じること、気付き、歓び、などなど。全てはつながっている。

今年は、広島から長崎まで平和を願い歩くという。

7gwalk
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ヴィパッサナー瞑想と浄化(個人的経験)

以下は、個人的で特殊な経験についての記述です。ヴィパッサナー瞑想で「酒が止められる」といったことが言いたいのではない。
瞑想を通じて、心の浄化が生じるということ。
より善く生きるきっかけがそこにあるということ。
興味を持った人は、ぜひヴィパッサナー瞑想を調べて、10日間コースに参加して欲しいこと。そんなことを伝えたいがために書いてみました。

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ヴィパッサナー瞑想 奉仕者

僕はこの4年の間に3回をヴィパッサナー瞑想の10日間コースにて生徒として座っている。
そして、この3月に以前から気になっていた奉仕者(サーバー)としての参加をすることが出来た。
とある仕事がキャンセルになったので、奉仕者に申し込んだ。そしたら「では、今日から禁酒してください」というお達しが。
ちょっと自信がなかったのだけど、良い機会なので2ヶ月断酒することになった。

danmab

生徒として座るのと、奉仕者として参加するのは「全然違う」経験だった。
両方がそれぞれ奥深い。 続きを読む

3度目のヴィパッサナーと次

2011年、2014年、2015年とヴィパッサナー瞑想10日間コースを3度受けてきた。
いずれも農閑期、冬だ。
キリリと空気の冷え込む京都の山奥で、呼吸を見つめ、身体の感覚を調べ尽くす修行・トレーニング。

vipassana

食事は菜食、静かな田舎・自然環境、ケータイやネットも無い、ノイズが極端に少ない。
瞑想し続けていると、ある地点から思考が切り替わる。
ネガティブな汚濁がどんどん浮上する段階から、徐々にポジティブなアイディアがどんどん浮上してくる。
一回目の参加は、「特殊な体験をした」という感覚が強く、ヴィパッサナーの本質を全く理解していなかった。
二回目の参加で、少し「こういうことか」と分かり、浄化が出来た印象があった。
今回、三回目の参加は「ほほ〜、こういうことだ」と腑に落ちる瞬間が何度もあり、浄化もすごく進んだ印象がある。
浄化とヴィジョンクエストが同時進行で展開された状態。
結構お酒を飲む人間だったが、「あってもなくても良い」⇒「別に無くても良い」という感覚になってきている。
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在り方への気付き その2 それは突如やってきた ヴィパッサナーにて

>>前回からの続き

コースマネージャー経由で、先生に「足音や自分が立てる騒音に配慮して欲しいと生徒に伝えて欲しい」と言ってもらった。
僕としては、この自分が取るアクションで「コースに静寂が立ち現れ、コース自体の質が高まる」と、良い事をした気になっていた。

しかし、先生からの返事は「寛容さを養う良い機会」という返事。
「なんだって???分かってないなぁ。ヴィパッサナーの目的は、心を浄化して、愛を生きることだろ。この雑音状態は、そこからかけ離れている。その学びの機会を生徒に提供しないのか?なんて指導者だ。ふざけてる。。。。。」などなど、頭の中は批判意見の大合唱。瞑想をしていても、全然集中できない。「よ~し、あの先生に何を言ってやろうか。あるいは、具体的な解決方法はあるかなぁ。「階段の上り下りに愛を」といった紙を一枚貼ってもらうだけでも良いんじゃないか。何なら、自分で作るか。。。」などなど。
瞑想しながらの止まる所を知らない妄想大会である。

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「在り方」への気付き その1:ヴィパッサナーコースにて

高校生か中学生の時に、あるTV番組でこんな紹介があった。
「タイでは普通のサラリーマンが3ヶ月間に渡り僧院生活をして、托鉢をしたり、瞑想をしたりする。そういったことが文化としてある」といった内容だった。
その時に、「良いな〜。僕がタイ人だったらそれを経験したい!」と強烈に思った。

今回2度目のヴィパッサナーに参加して、この仕組みはかつて自分が「良いねぇ!」と感じたものと似た仕組みだと理解した。

ヴィパッサナーの10日間コースの間、明確に戒律が設けられ、それを遵守することになる。シーラー:戒だ。
1 いかなる生き物も殺さない。
2 盗みを働かない。
3 いかなる性行為も行わない。
4 嘘をつかない。
5 酒や麻薬などを摂取しない。

コース参加2度目以降の生徒には次の3つも付け加わる。
6 正午以降食べ物を摂らない。
7 娯楽を行わず、身体装飾をしない。
8 ぜいたくな、あるいは高い寝台で眠らない。

そして、生活は非常に規則正しい。朝4時に起きて、4時半から瞑想がスタートする。食事は1日2食+ティータイムがある。食事に付随したちょっと長めの休み以外はけっこうタイトなスケジュール。瞑想と瞑想の間には5分程度のトイレ休憩があるだけ。それが、夜7時頃まで続き、締めくくりは録音音源による講話を聴く。そして、夜9時半には消灯という一日。トータルで10時間半ぐらい瞑想する時間がある。瞑想三昧である。

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2度目の10日間

2度目のヴィパッサナーは自分の中に少しの余裕があった。
勝手が分かっているというか、流れも頭に入っているから、不安がない。
余計な事に意識を取られずに、瞑想に集中することができた。

3日半はひたすら「鼻から出入りする呼吸に意識を集中させる」という修行。
アーナーパーナー瞑想という。これが、辛いのなんのって。。。
とにかく、集中が出来ない。情けないぐらい出来ない。
瞑想は大体1時間から2時間のセッションなのだが、1時間ほとんどウツラウツラと眠っている状態だったり、3分と集中できずにアレコレとしょうもない考え事に支配されていたり、身体が痛くて瞑想どころではなかったり。
「京都に瞑想に来て、1時間の居眠りってなんやねん!」と自分にツッコミを入れてみたり。
とにかく、意識も身体も長時間の瞑想に慣れていないので、かなり辛い。
この状態が3日目ぐらいまで支配的だ。

しかし、この「集中できない」という事自体が、こころの汚濁が浄化されるまいとしている抵抗とのこと。
とにかく、粘り強く、辛抱強く、修行を続ける事を諭される。

確かに、徐々に意識と身体が慣れてくるのか、楽になってくる。

慣れてくると1時間座っているのも楽々やれる感じになる。
アーナーパーナー瞑想を3日半やった後に、身体の感覚をたどっていく「ヴィパッサナー瞑想」に入る。
この段階では、身体が慣れてきていることもあり、意外とスムーズに瞑想できるようになっている。もちろん、妄想もたくさん出てくる。

6日目には全身の感覚が流れるように移動する「フリーフロー」がやってきた。
3年前はひと呼吸で肌感覚が頭の先から足の先まで2往復する激しい流れを感じたことがある。今回は、かなりゆっくりなのだが、身体の表面をエネルギーが流れている感じを得ていた。
その他にも光に包まれているような至福に満ちた感覚や、自分の肉体とそれを観察している意識が別離しているような感覚など不思議な経験もあった。
前回はそういった経験に浸っていたが、今回はそれを冷静に見つめることが出来たと思う。
この瞑想法の大切なポイントはこういった感覚に惑わされずに、それも「過ぎ去るもの」としてただただ見つめる、観察するということ。
並行して身体の感覚に意識を向けておくということ。
そのプロセスの中で、潜在意識下のこころの汚濁が浄化され、本来の意識に近づいていく。
確かに、瞑想を積み重ねることで、意識は軽くなり、アレコレと反応しなくて済んでいる自分がいることに気が付く。
そして、自然と「慈しみのこころ」が立ち現れてくる。
「ああ、いのちの本質は優しさ・慈しみなんだ」
ということが、頭ではなく、身体と心の全身で丸ごと理解できるとでも言おうか。
正に、腑に落ちるという身体感覚がピッタリくる。

教えの中で、知恵には3つあると説明されている。
「借りた知恵(人から聞いたもの)」「頭で考えた知恵」、そして「体験した知恵」だ。
この「体験した知恵」が最も大切とされていて、それを体得するために、瞑想をするということだ。
ブッダは次のように語っている。

「自分の修行は自分でしなければならない。
ゴールに到達した人は、その道を教えることしかできない。」(ハート:125-126にて引用)

というわけで、全人類に体験して欲しいとすら思うわけです。
もちろん、一度体験したら全て浄化されるというわけではなく、継続的に浄化は続けていく必要がある。時間は限られるけれども、座ることが毎日の習慣になってきている。

参考文献:ウィリアム・ハート(1999)『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』春秋社.

2度目のヴィパッサナー瞑想

先日、3年振り2度目のヴィパッサナー瞑想10日間コースに参加してきた。
3年前は初参加で、ついていくのがやっとだったこともあり、どれだけ理解が浅かったかを今回痛感した。裏を返せば、今回は非常に深い経験と理解になった。

「「ものごとをありのままに見る」という意味のヴィパッサナーは、インドの最も古い瞑想法のひとつです。この瞑想法は2500年以上も昔、インドで、人間すべてに共通する病のための普遍的な治療法、すなわち「生きる技」として指導されました。」(日本ヴィパッサナー協会HPより)

自分の呼吸、身体感覚、こころや思考の動きをありのままに見る、観察するのがヴィパッサナー瞑想。その目的は「こころの汚濁の浄化」とされている。
「人間全てに共通する病」とはこころの汚濁が生み出す「反応」のことだ。

例えば、顕在意識では「人に親切にしたい」と思っていても、実際には「ついつい妬みや批判意識が出てきて親切にできない」という経験がないだろうか?
「ついつい」は「反応」であって、その人の本質ではないのだが、「どうして自分は思っていることを具現化できないのだろう」と悩んでしまう。そして、往々にして、そんな自分を批判したり、反応しないように努めたりする。が、それは「ありのまま」に見ることからは外れている。

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気付きのために〜ノイズ〜

前回、「自然に生かされている」という気付きについて書いた。
この気付きにつながるのに、必要だと僕が思っていることを紹介したい。

ノイズを減らす

今の社会はノイズで溢れかえっている。
騒音、雑音はもちろん、過剰な宣伝広告、メディアが垂れ流す下らない情報などが意識せずとも飛び込んでくる。
正に、耳にも眼にもノイズだ。
それだけではなく、食品を手に取れば、その裏面には数え切れないほどの添加物リスト。
カタカナだらけで、わけが分かんない。コンビニ弁当1個には累計で300ぐらいの添加物が入っている場合もあるらしいよ。
ジャンクフード。これは、口から入ってくるノイズだ。
空気も汚れてるし、水道水には塩素とフッ素が入ってるって。
電磁波はところ構わず飛び交っているし、今や放射性物質まで漂ってるよ。
そして、人間関係もギスギスしてたり、勝つか負けるかの駆け引きがあったり。

ああ、ノイズだらけ。


FBでシェアされていた画像を借りました。

そんなノイズに取り囲まれていると、感受性や気付きの感覚が退化すると思う。
僕もそうだった。感じないことで自分を守るように本能が働くんだ、きっと。
そして、待っているのはストレスと漠然とした閉塞感、生きることに希望を持てない感覚。
それを誤摩化すために、人は横暴になったり、人の気持ちを踏みにじったりするんだろうか。
この状況下で原発推進とかさ。

農山村に移り住み、都市で浴びていたノイズから距離を取れるようになった。
ここにあるのは静寂。自然が運んできてくれる明るさと暗さ。美味しい空気と水。ピュアな野菜とお米。
携帯の基地局が残念ながら近くにあるけど、僕自身は携帯不携帯なので電磁波の影響も軽減されてる。パソコンや家電もアースを取っている。

食べると身体が重くなるから、添加物入りの食品は極力避けている。
まぁ、はっきり言って、美味しくないんだよね。ただ、それだけのこと。
そうしてたら、それらが「まともな食べ物」に見えなくなってきた。

TVなし生活も10年近くになる。
余計な情報が入ってこないし、あの独特のやかましさがないことが嬉しい。
冷蔵庫も置いていない。あの1日中うなっているモーター音ともおさらばした。

ストイックに思えるだろうけれども、そうでは全然ない。
僕にとっての快適さをシンプルに追求していったら、こうなった、というだけ。

ノイズから離れたら、感じるスペースが広がった。
そりゃそうだ、当たり前だ。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているんだから。
そこから解放されたらセンサーは動き出す。

つづく