『ナリワイをつくる』を読んで その2

著者である伊藤さんの議論を読んでいて、「面白い!」と思えたところを自分自身に惹き付けて考えてみた。

「そもそも」
ナリワイを作り出す方法論についても、語られていて、その文脈の中で「日常生活の違和感を見つける」という項目がある。
グローバル化する経済社会やビジネスシーンでは「何故を5回繰り返せ!」というのが王道らしい。筆者は「これは既存の枠組みの中でしか物事を考えられない傾向がある」と述べている。
確かに、「なぜ、車が売れないのか?」という問いは、どうやったら車が売れるのかを前提にしていて、車は既存の枠組みとして維持される。
ナリワイ的には、「そもそも」を問うていくという。「なぜ、車が売れないのか?」と考えるよりも「そもそも、車をこんなに売る必要があるのか?」とか、「どうやったら夢のマイホームが手に入るか」じゃなくて「そもそも住宅ローン自体がいらなくないか?」と考えていくほうがおすすめである。」(p.138)

「問題を引き起こしたマインドセットを用いて、その問題を解決することはできない」とアインシュタインは語ったそうだが、それに通じる話しだと思う。

僕も今のライフスタイルの原点は「そもそも、人間ってこんなに嫌な思いをしてまでお金のために働かなければいけないのだろうか?」という問い掛けだったと思う。
自分に引き付けて考えると、「そもそも冷蔵庫は必要なのか?」「そもそもケータイは持った方が良いのか?」「そもそもトイレが水洗であることが必須なのか?」などなどと問うて来た。
その問いの結果として、冷蔵庫なし、ケータイ不携帯、コンポストトイレといった暮らしのスタイルが生まれてきた。
今の大量生産&大量消費&大量廃棄を前提として、とにかく経済は拡大すべきというのがメインストリームとなっている社会の中で、積極的に「そもそも」と問うていくことが大切だと思う。
ちなみに、その「そもそも」という発想から、社会との関わりの中でナリワイをつくっていくことを筆者は勧めている。

「ローコスト」
暮らしに掛かるコストを減らすこともナリワイの視点からは大切だという。
「モノが溢れている現代社会では、どうでも良いことにお金を使っている。稼ごう稼ごうと血眼になって取り組むよりも、注意深く生活を観察すれば、かなりの支出を生活の楽しさを落とさずに減らすことができるのである。
人生における支出を減らすのは、自分の生活をいじるだけ。
お客さんを捜したりする手間もないから、ナリワイをつくって収入を産むことよりも、圧倒的に簡単なのである。」(p.80-81)
正に、その通りだと思う。そして、支出が減った分だけ、稼ぎ仕事も減らしていけば良いのだ。これは非常にクリエイティブな営みだと思う。

今の社会は色々なことに金が掛かる仕組みにしておいて、人々を消費者に落とし込み、金を使ったその分を稼ぐ必要があるという循環を作り出している。それを断ち切るには、「そもそも」お金を使わないで済ませるということだ。そこでは当人の知恵と工夫が試されると思う。

こういった話しをすると、「経済が回らなくなる」という話しが出てくると思う。けれども、経済とは本来は「人々が幸せに暮らす営みの連鎖」だったはずだ。それが、100万年も汚染物質をまき散らす原発だろうが、経済のために稼働させられてしまう始末。世界中で一番お金が使われているのは軍事費で、2番目が宣伝広告費だそうだ。つまり、それだけ宣伝広告をしなければ売れない、そもそも必要がないものが多いのではないか。こんなデタラメな構造にしがみつき、自然環境を破壊し、途上国や弱い立場の人々にツケを押し付ける経済など、そもそも「成立している」のだろうか?

こういった発想をしていくと、生きていくのに頼るべきは「自然」と「人とのつながり」だと思う。
ナリワイも人とのつながりの中で展開できるものだ。

先日、思い付きで呼び掛けた「庭の無農薬ユズと何かのブツブツ交換」は、意外と反響があって、14軒の方々と交換をした。自然から受け取ったものを、人とのつながりの中で活かすことができた。放っておいたら、腐って落ちるだけだから、活用してもらえて嬉しい。

そして、オーガニックコットンTシャツやアクマキ、無農薬野菜、書籍、醤油モロミ、お米などなど、いろいろなブツがコウカンされてやってきた。こんなことをしながら、これもひとつの僕流のナリワイかしら?などと考えている。
何より、このプロセスと営みがたのしくて豊かだった。
今後も、意識的に僕流のナリワイ的活動を増やしていこうと思う。

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伊藤洋志(2012)『ナリワイをつくる 人生を盗まれないための働き方』東京書籍。
お勧めです。