『ナリワイをつくる』を読んで その1 

『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』という本を先日、一気に読んだ。
非常に共感できるところが多々有り、「普段、半農半スロービジネス合宿で話していることが、かなり盛り込まれている」と嬉しくなった。

筆者は僕と同じ世代。同時代を生きていて、こういった発信がなされ、しかもそれがけっこう広まっているというのがこれまた嬉しい。

表現されているエッセンスを簡単に僕の目線から紹介したい。
今、多くの人が「仕事」に関して悩んでいると思う。就職活動が上手くいかずに、絶望してしまう学生さんもいるとか。「やりたくもないこと」や「自分の信条に反すること」も「仕事だから」とせざるを得ない人たちもいる。

いつの間にか、今の世の中では、「仕事」とは「雇われてするもの」「自分も周囲もがハッピーじゃなくても、仕方がないもの」となってしまっているようだ。
僕が思うに、そうなってしまう大きな原因のひとつは、「お金がなければ、あなた達は生活ができないぞ」という脅し、あるいは呪縛があると思う。
並行して、暮らしの中に「お金が掛かる仕組み」が組み込まれている。

伊藤さんによれば、大正9年には3500種類の職業が国勢調査にて登録されたという。しかし、現在は2167ほどの登録しかないとのこと。

昔は傘屋や障子や襖(ふすま)貼り、桶屋などなど、人々が暮らすことを中心にして、たくさんの仕事があったに違いない。僕が小学校ぐらいの時には東京の郊外にある団地の商店街に魚屋さんも駄菓子屋さんも、豆腐屋さんも、パン屋さんもあった。それぞれ、個性的で、地域に根ざしていたと思う。多分、暮らしが地域のつながりの中で回っていたのだと思う。
そういった暮らしにまつわる「必要なこと」は大企業が効率化したシステムの中で、「安い」ことを売りにして切り崩して来ている。

僕が生まれ育った地域の駅には小学生時代(25年ぐらい前)は、本当に何もなかった。本を買いに隣の駅まで行かなければいかんぐらいだった。
が、25年経った今、ショッピングモールが3つも立ち並び、本屋も3件ぐらいその中に入っている。そして、駅前は不必要に明るく、駅の近くには高級マンションが建ち並んでいる。そして、地域の小さな仕事は駆逐されてきている。単純化すれば、これも経済のグローバル化の影響ということも出来る。

筆者は、こういった弱肉強食で手段を選ばずに、稼ぐが勝ちという論理の経済社会を渡り歩く「バトルタイプ」と区別した形で「非バトルタイプ」の仕事として「ナリワイ」を提唱している。「すなわち、これからの仕事は、働くことと生活の充実が一致し、心身ともに健康になる仕事でなければならない」(p.6)と言うことだ。

伊藤さんによる「ナリワイ10か条」(p.72)
*やると自分の生活が充実する。
*お客さんをサービスに依存させない。
*自力で考え、生活をつくれる人を増やす。
*個人ではじめられる。
*家賃等の固定費に追われないほうが良い。
*提供する人、される人が仲良くなれる。
*専業じゃないことで、専業より本質的なことができる。
*実感が持てる。
*頑張って売り上げを増やさない。
*自分自身が熱望するものをつくる。

「そうそう、その通り!」と大きくうなずきたくなる10か条だ。
どんどん、自分で付け加えて増やして欲しいとも書いてある。
僕が付け加えるとしたら以下のことかな。

*暮らしも仕事も自然と調和していること。
*未来世代や他の動植物からも歓ばれる、あるいはそれらを害さない暮らしと仕事。
*ナリワイ同士が横の連携をして、一緒に生きる地域を形成していくことにつながる。
*対価は「まっとう」な水準である。
*世の中のデタラメなシステムに相乗りしてそれを強化しないことを意識する。
*お金に依存しない。
*自然や人とのつながりに頼る。
*暮らしの中で自分を見つめたり、内省したり、瞑想したりといったことも大切にする。
*「自分を生きる」ということと、暮らしや仕事が直結している。

まだまだ、いろいろ付け加えたくなる。
仕事と暮らしを切り離さず、自分を生きることと直結したナリワイがどんどん広がると良いと思う。
もう少し具体的に面白いと思ったポイントを追って書いていこう。

>>つづく

書籍データ
伊藤洋志(2012)『ナリワイをつくる〜人生を盗まれない働き方』東京書籍。

わくわくマルシェ@飯塚

今日は、友人が企画している飯塚のわくわくマルシェにてパネラー参加。
「優しい生き方」というのがテーマ。
筑豊で「面白いこと」をやっている4名がずらりと(一名はちょっと遅刻されてましたが。。。)そろい、良い場になりました。

15分で、やっていることとその背景にある考えを話して欲しいとのリクエスト。
チラシには「食の自給」と書いてあったのですが、

自給的な暮らし
お金に依存しないこと
自然に生かされるという感覚
地球1個で足りる、足るを知る暮らし
面倒くさいを越えた工夫や生きる力

といったことをお話しさせていただきました。

他のパネラーの方々の話しも興味深かったです。
「子どもに大切なことを伝える」と言っても、その大人が経験していなかったり、分かっていなかったりすることが多い。その大人が学ぶ学校的なものをやりたいと松岡さん。

フィンランドの教育は試験無し、他者からの評価無し。
独創性を育む教育の話しは清水さんから。

ソウルワークというコンセプトで「とにかくやってみる」というメッセージを山伏姿で伝えてくださった久冨さん。

全体的に、「学ぶ」ということがキーワードだった気がしています。

参加者の方々と一緒にその後「ワールドカフェ形式」で対話。
「やってみる」ということが、大切だと思った。
「一歩前に進んでみようと思った」といった反応も出ていたとのこと

参加者の方々からの反応も聞きながら、対話をしながら、
ビンボーヒマ有りな僕としては、もっともっと学びを深め、
それを丁寧かつ的確に発信していくことの質を高めたいな、と思った次第。
というのも、もっともっと伝えたい届けたいことはたくさんあるのだ。
それを、どうお届けするか?

このブログでの発信も含めて、知識の翻訳というかな、そんなことを意識しようと思う。
もちろん、地に足のついた形での翻訳をしていく。

まぁ、体験を通しての学びがいちばん響くとは思っているけどね。
「やっぱ、一度見学に行きたいね」なんて、つぶやきもお聞きしました。
そろそろ麹を仕込みたいなぁ、と思っているところ。
麹を仕込む会でも企画するかな。

気付きのために〜自然〜

「自然に生かされている」という気付きに近づくために、僕が大切にしていること。
ひとつは、前回書いた「ノイズを減らす」ということ。
もうひとつは、当然だが「自然」の存在。

ノイズから離れたことがない、
常にノイズに囲まれちゃっている人にはなかなか話しが通じない。
ノイズが感じるセンサーを占拠しているし、
ノイズがない状態を経験していないからだと思う。

東京に暮らしている時の僕は正にそうだった。
あの漠然とした閉塞感と不安は何だったのだろう。

ある人とこんな話しをしている時に
「君の言っていることは、分かる。けど、伝わってこない」と言われたことがある。
その時に「経験」ということの大切さを思った。

僕がラッキーなのは、都市も田舎も両方経験しているということ。
ありがたいことだ。

両方に身を置いてみて、やっぱり自然の近くに生きる方が断然良いと感じる。
僕にとっては。

自然は時に牙をむき脅威にもなるが、
僕の経験上は、自然はかなり優しい。
その中で暮らしているだけで、とても安心感がある。

この安心感こそが、「生かされている」という感覚だと思う。
北の国からというドラマの中で、吾郎さんが
「心配すんな。自然はオマエひとりを食わせるぐらい、なんてこたぁねぇ」といった趣旨のことを語っているらしい。
1粒の米粒が2000粒ほどに増えてくれること、
栽培していないのに畑の中にはアレコレこぼれ種から野菜が育つこと、
野草や山菜が季節のリズムと共に顔を出すこと、
自然が恵んでくれるということだ。
感謝は努力して「する」ものではなく、「湧き出る」ものだということが腑に落ちる。

『森の生活』を書いたヘンリー・D・ソローは
「1日最低4時間は大自然の中を歩きなさい」と語っているらしい。

D・スズキは、1日30分意識的に自然に触れること、外に出ることを30日間続けてみようと提唱している。
そこで生じる変化や嬉しさ、愉しさを感じて欲しいという趣旨。

30 × 30 nature challenge (English only)

すごく良い取り組みだと思う。
愉しみながら自然の中に身を置くというのが良いと思う。
その遊び心の中から、発見や理屈抜きの愉しさが湧き出てくると思う。
そして、自然に感謝の気持ちも。

こういった余裕を常に持って生きていたいと思う。

「みんなが、1年ぐらい農村に住んでみると良い」といった発言を読んだ記憶がある。
都市で暮らすよりもコストは低いし、自然に近いところで暮らすという意味でも良いと思う。自治体レベルでそういった受け入れをしても面白いだろうと思う。

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半農半スロービジネス合宿を12月6〜8日(2泊3日)で開催します。
ここで表現しているようなことを体験的に学べます。