コアジャッカル/インナーチャイルド

10月8日と9日に友人と組んでコラボイベントをする。
深い自己共感~身体感覚と呼吸を軸にした癒しと変容
この中でコアジャッカルやインナーチャイルドを取り扱う。

共感的コミュニケーションの講座をする中で、受講者はこの辺の領域にとても関心が高いことに気づいていた。その流れで企画を組んでみた。
ちなみに、今回のアプローチは身体感覚と共感をベースに過去の痛みや傷に向き合っていくというもの。

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けれども、僕自身はトラウマがどうとか、インナーチャイルドがどうとかっていう話には正直ピンときていなかった。何か自分の中にあるのかも知れないけれども、よく分からない。
現状の自分の認識や反応の根っこになっているようなものがあるのかもよく分からない。
そんな状況だった。
講座をやるからには、ハワイで受けた講義や資料に当たって、自分自身で内なるプロセスをしておきたいな~と思っていた。

そう思っていたからだろうか、不思議な経験をした。

ある朝、5時に電話がなって目が覚める。ファックス受信だったのだが、「えらい朝早いな」と苦笑しつつ、ついさっきまで見ていた夢が鮮明に残っている。
なんとも後味の悪い夢だ。
かなり前に一緒に時間を過ごした女性がいるのだが、たまに、僕の潜在意識から顕在意識に登ってくる。別に未練があるとかそういうことではないのだが、何かが未完了なのだという感じはしていた。
「なんだろな、この夢の意味は。何が未完了なんだろう」と薄暗い朝の中で横たわりながら意識を向けてみる。
すると「私は人を幸せにはできない」というコアジャッカルの声が聞こえてきた。
「おおっ、なんだこれは、出てきたぞ。あこれって、コアジャッカルじゃないの?」と思いながら意識を向け続ける。

コアジャッカルの声と並行して身体に意識も向ける。
すると、横たわっているのだが、胸のあたりがすごく重苦しくなってきた。ズドーンと重い。
呼吸が浅くなる。悲しみ、無力感、諦めのような気持ちなどなどが押し寄せてくる。そんな感覚だ。
身体の感覚が強烈なほどインナーワークのプロセスは深い所まで行けると聞いたことがあった。
どこか冷静な自分もいて、「おっ、これは深い所まで潜っていけるかもな~」なんて思っている。
それと同時に、コアジャッカルは向き合われたくないのか、自分を思考に引っ張ろうとする。違うことを思考レベルであれこれ展開させようとするのだ。
「10月の講座が満席になったら、けっこうすごいことだなぁ」
「そういえば、ハワイでNVCを学んでいた時にあんなことがあったなぁ」
といった感じで思考は過去や未来に引っ張っていこうとする。
あっ、思考に引っ張られかけた、と気づいてはコアジャッカル自体と身体の感覚に意識を戻す。
その繰り返しのプロセスだった。

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すると、小学校時代の様子が浮かび上がってきた。
休み時間に校庭でサッカーをしている。学童がみんなそれぞれにやりたいことをやって遊んでいるカオス状態。
その中で僕がドリブルをしている前を女の子が横切った。
その瞬間に彼女がボールに足を絡めて派手に転んだ。
痛かったのだろう、女の子は大泣きしているのだが、「なんだよ、じゃますんなよ、どんくさいやつだ」ぐらいに思っている僕。
そして、サッカーを続けていた。

翌日、学校に行くと、転んだ女の子が骨折したのだろうか腕にギブスを巻いて首から包帯で吊っているではないか。
ものすごく驚いた記憶がある。特に言葉を交わしたわけでもなく、何か言われたわけでもない。
その場面が浮かび上がってきた。
コアジャッカルがつぶやく「オマエは/私は人を幸せにはできない」

その当時に驚いてどうしていいか分からなかった小さな自分が居た。今の自分の中にもその小さな自分のエッセンスが在る感覚が出てくる。
これが、いわゆるインナーチャイルドでもあるのだろう。

その子に寄り添い、共感するプロセスに入った。
骨折した女の子を見た時にどんな気持ちだったのか?その時に何を必要としていたのか?

とても驚いたし、怖かった。どうしたらいいのか分からず、ものすごく不安だったし、恐れもあった。
思い返すと、そのこと自体を親や先生を含めて誰かに話した記憶が全くない。
「これはやばいぞ」と思って、自分の中に固くしまい込んだのだ。誰にも話せないし、どうしたらいいか分からない。
けれども、実際に求めていたことは「自分の気持ちを聞いてもらうこと」だったし、「それは怖かったんだねと、共感してもらうこと」だったし、「大丈夫だよって、寄り添ってもらうこと」だった。

そっか~、そんな小さな自分がいたなぁ、いるなぁ、と自分自身に共感する。
そして、その小さな自分に「共感が必要だったんだね」と寄り添い、その感覚を深く味わう。

このプロセスの中で、NVCを学ぶまで本来的な意味での「共感」だとか「気持ちに寄り添う」といったことがリアルなモノとして自分の中に全くなかったことに気がつく。
経験したことがないことは、自分の辞書にはない。

一連のプロセスは1時間弱ぐらいだったろうか?
気づくと身体の重さは消えていて、自分の中にエネルギーが満ちている感覚がある。
並行して、いろいろな気づきが自分の中に浮かんでくる。
「人を幸せにはできない」と同時に「危機は、ずるさを伴ってでも、自分一人でなんとか切り抜けなければならない」というコアジャッカルも居る。
自分の中で透明になっている信念。「聖なる誓い」とも言われる強烈な想い。

それらを明確に認識すること。
そして、それを形成した時のインナーチャイルドが持っている感情とニーズに寄り添うこと。
そのニーズは今の自分にとっても大切な要素だという気づきもある。

落ち着いた状態で「私は人を幸せにはできない」って本当だろうか?と問うてみる。いやいや、そんなことはないわなぁ。今あるつながりの中で、自分の存在を喜んでくれる人もいるし、一緒に楽しんでくれる人もいる。
「危機は、ずるさを伴ってでも、自分一人でなんとか切り抜けなければならない」というコアジャッカルはどうか?これも、周囲にいる人たちのたくさんのサポートの中で僕は生きているので当てはまらない。
自分を取り巻くリアリティに目を向けると、これらのコアジャッカルは手放せる。

このプロセスをくぐり抜けると、自分の中で断片化していたものが統合されて、いい質のエネルギーが出てきている。
「コアジャッカル/インナーチャイルド」へ向いていた意識、あまり心地の良くない夢、5時の電話、そしてそこから生じたプロセス、これらの組み合わせと自分の中の気づきはギフトであり大きなお祝い。
人生は面白い。

そんなプロセスを10月の企画で参加者と味わえるのを楽しみにしている。
人はもっと自由闊達に生きることができるはずだ。

cf: トラウマ/インナーチャイルドへの癒しや聖なる誓いに関して書いた記事
トラウマの処理・共感あるのみ(IIT@マウイ)