「正しいか」「間違っているか」を超えたところ

「間違ったことと正しいことという考え方を超えた所に場が広がっています。そこで会いましょう。~Rumi」

この詩はとても奥深いと感じている。

非暴力コミュニケーション(NVC)やサイエンズを学ぶ中で、「正しいか/間違っているか」という枠組みを超えたところに平和の鍵があると感じている。

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NVCで捉えると、あらゆる人間の言動は「ニーズ/必要としていること/大切にしたいこと」を満たしたいところに根がある。ニーズは人間が普遍的に持っている要素なので、そのレベルでは正しいも間違っているもない。
ただ、その人の願いや想いがあるだけ。
それをどう満たすかという手段/ストラテジーのところで対立が生じる。
例えば、「つながり」というニーズを満たしたいから「歓送迎会」という手段を取る。その歓送迎会に対して「そんなの時代遅れだ=間違ってる=出たくない」みたいな反応があってもめたりする。
サイエンズで捉えると、私の認識は自分劇場の中の「自分が捉えたこと」「自分の感覚」でしかない。そこに、正しいも間違っているもない。ただ、私はそう認識しているというだけのこと。
「歓送迎会をやりたいなぁ」と思っている人がいて、そこに何か想いがある。それを聞いて「時代遅れだなぁ」と捉えている人がいて、そこにも何か想いがある。

実は、ただそれだけのことなのだが、「正誤」の枠組みで生きていると、「間違いを責める/追求する」、「論破する」、「正そうとする」、相手に「わかっていない人」みたいなラベル/レッテルを貼るとか、そういった中で対立や分断が生まれてくる。
それは調和や平和からは遠い状態だ。平和な人間にしか平和は実現できないと僕は思っている。

自分自身は「正しさ」を追求する姿勢はとても強かったと思う。中学生の頃からアマゾンの森が消えると思ってハンバーガーはボイコット。ナイキが途上国で児童労働を強いてると聞けば買わないようにしてた。今も、添加物やケミカルな食品は食べたくないし、遺伝子組み換えの食品も避けたいし、電磁波も厄介だと思っている。他にも色々思うことはある。
以前は、自分の感覚が「正しい」と思っていた。それは、この正しさを理解できない人は「間違っている」ということにつながっていく。明確に意識していなくても、思考パタンがそうなってしまう。

なんで、こういった思考の枠組みが自分の中にあるのか?
学校教育の教え込みプロセスに「正誤」という枠組みがガッチリと組み込まれている。テストがあり、正しいことと間違っていることがあるという認識が植え付けられる。
今、小学校ではディベートの授業があって、「賛成派」「反対派」の2つに分かれて討論するらしい。そして、その正当性を先生が「こっちの方が説得力があるので勝ち」といったことをしていると聞いた。
巷にあふれる情報も「誰が悪いのか?」「原因はなんなのか?」みたいな構図が多い。
そんな環境の中で育っていくと、「正誤」の枠組みは当然のごとく私にもあなたにも組み込まれるだろう。
けれども、そのこと自体に気づくことで、そこから抜け出すこともできる。

「価値判断なしに観察する能力は最も高度な知性である。」J・クリシュナムルティ

客観的に正しいか、間違っているかということが本当に言えるのだろうか?
良いも悪いも「自分が捉えたこと」「自分劇場」でしかない。
自分の向こう側に「良いこと」「悪いこと」があるのではなく、自分の価値観や信念の束があって、それで物事を見て判断している。
実は、そんなことなのだと思う。

サイエンズ的に言えば、その自覚を持つこと、鍛えることが大切。より深く自分のフィルターを見ていくようなイメージ。
NVC的に言えば、「自分にどんなニーズがあって」その出来事や事柄に反応しているのかを理解すること。コアジャッカルというフィルターにたどり着けると、ものの捉え方自体が変容していく。

このポイントに立てると、「間違ったことと正しいことという考え方を超えた所に場が広がっています。そこで会いましょう。」という詩がすんなり理解できるんじゃないかと思う。

と、書きつつ、自分の中に疑問がある。
自分の中で「これはどうなの」とか「受け入れられないな」という出来事。
例えば、「原発はどうなんだ?」といったこと。
正しい、間違っている?
この点は、また別に表現してみよう。