何でも言える話し合い(サイエンズ)

サイエンズという手法について
自分劇場であることの自覚それを調べるということについて書いてきた。

今回は、自覚や調べるができると何が良いのか?について、感じたことを書いてみたい。
サイエンズを学んでいて、「なるほど~」と思ったのは、これがあると「話し合い」ができるということだった。もちろん、それ以外にもいろいろな側面があるけれども、僕の中では大切なポイントの理解として共有しておきたい。

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「話し合い」なら普段しているよね。
では、その話し合いに以下の要素があるだろうか、ないだろうか?

*「何でも言える安心感」
*「責める/責められる」「批判する/批判される」
*「相手を聴くこと」
*「気づき/洞察」

サイエンズに興味を持ったきっかけの一つに「本心で話し合いができる人間関係」というものがあった。様々な社会活動、平和運動、環境運動などなどが世の中にはあるけれども、人間関係のところでつまづいたり、「話し合い」が成立しなかったり、内部で批判の応酬になったりというケースも多いと聞く。自分にも若干の(?)心当たりが。。。
「『こういうこと(平和、環境、地域経済などなど)をやりたい』という想いだけではできない。それがやれる人に成り合っていく」といったことがサイエンズやアズワン・コミュニティの中で言われている。
「それがやれる人に成る」というのは、「自分が捉えたことである」=「自分劇場である」という自覚があること、自分を調べていけること、そして本心で話し合いができることなのだと僕は理解している。

上記の要素を見ていこう。
「何でも言える安心感」
普段の話し合いの中で、「何でも言える」という状態があるだろうか。表面的には「何でも言ってね」みたいなことが発せられて、そういう雰囲気があっても、実際にはどうか?
「こんなことを言ったらどう思われるかなぁ」
「言い出しっぺがやれって言われたら嫌だな」
「さすがに社長にはこれは言えんねぇ」
などなど、たくさんの制限がないだろうか?
僕自身も言いたいことは言う方だが、それでも立場や状況に応じて押し留めることも多々ある。
その「押し留める」ということが、周囲の状況でなされているのだろうか?外に原因があるのだろうか?いやいや、これまた自分劇場の中で、何かが展開されていて「言えない」としているのだ。
それを自覚すること。

並行して、言いたい意見や想いは自分が捉えたことなのだという自覚もあること。
これらの自覚があると、「これって、僕が捉えたことなのだけどね」「ちょっと自分劇場を話して良いかな」という感じで話すことが可能になる。
受け取る方も、「相手劇場」が語られているのだとの自覚があるので、「言われた」「責められた」「批判された」ということにはならない。

先日のコースでのやり取りで、僕が「よくお店なんかに「禁煙!!!」とか「駐車禁止!!!」といった類の表示があるんだけど、何だかエラソーだなぁ、って感じるんですよね」と言った。
それを聴いていた初対面の参加者が「私はそれを聴いて、ゴトーさんエラソーやなぁって感じてねぇ。自分の中でどう捉えたのかなぁ?」と言っている。

以前なら、何か「自分の意見や自分自身を否定された」みたいな捉え方が出てきていたかと思うのだが、この時は、「へ~、そんな風に感じたんだ」という思いと「なぬっ!」という反応と両方あった。
なるほど、何でも言えるってこういうことか、と体感したのだった。
そこにあるのは、ある種の安心感だった。
「何を言っても良いし、何も言わなくても良い」。
ちなみに、僕はまだまだ学んでいる途上なので、「言えない」こともたくさんある。
「言えるように成る」ことが大切なのではなくて、「言えない」と捉えている自分を調べていくというのがサイエンズのアプローチだと理解している。

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「責める/責められる」「批判する/批判される」
自覚が高まっていくと、「責めない」「批判しない」ではなくて、「責め」や「批判」がなくなると理解している。
責めや批判って「自分が正しくて、相手が間違っている」という枠組みの中で発生すると思う。これは自分の感覚なのだ、自分が捉えていることなのだという自覚があれば、そういったことが発生しない。逆にそれが発生するうちは、頭では自覚を理解しているけれども、自分の外に=相手側に事実があるように捉えている。
「どうして時間通りに来ないんだ。約束しただろ」ではなく、「何かあったのかな~?」
「あの人は目先の利益ばかり考えている」ではなく、「なんだか余裕がなさそうだけど、大丈夫かねぇ」
「『そんなの大したことじゃない』って否定された」ではなく、「きつい口調だと感じるけど、どうしたのかな、何か嫌なことでもあったのかな」
例がテキトーだけども、違いのニュアンスが分かるだろうか。

努力して、後者の捉え方をしよう、ということではなく、自覚が高まっていくと自然とそうなっていくのだと思う。
そして、責めや批判が出てきたら、「あれ、向こうに事実があるように捉えていないか?」と見直しつつ、それを調べていく。

「相手を聴くこと」
自分劇場に自覚が生まれると、相手には相手の劇場があり、何かを捉えていたり、何かが起きているということに関心が向いていく。「どうなっているのだろう?」「何が起きているのだろう?」それは自然と、相手を聴くということに向かうだろう。

自分の考えや意見を一方通行で言い合うスタイルの話し合いにはならない。
話し合いが自分の観点を伝え、相手の観点を聴くスタイルの「話し合い」「聴き合い」になっていくようだ。

「気づき/洞察」
サイエンズで自分を調べたり、話し合ったりしているプロセスの中で、「あぁ、そういうことか」「あれ、こんなのが自分の中にあったぞ」といった形で気づきや洞察がやってくることがある。
一人で悶々とアレコレ考えているよりも、複数のメンバーで視点を共有したり、その場に共に居てくれる中で、「あぁ」ということが生じやすくなる印象もある。

コースでの自分劇場と気づきを紹介しておこう。
キッチンで用事を済ませて、すぐ隣の自分の部屋に戻る。廊下を男性が歩いていく音が聞こえる。その時に、「あっ、キッチンの電気つけっぱなしだなぁ」と思っている自分がいる。
足音が一瞬止まり、「パチン」という音が聞こえる。電気スイッチを消した音だと捉えている。
そして、そのパチンの音に「またつけっぱなしかよ」という非難が込められていると勝手に捉えている。まさに、自分劇場の展開である。
これを話していて気づいたのは次のこと。
その奥には「人から何か言われるのではないか」「ミスを指摘されるのではないか」と意外や意外、けっこうそういったことを気にしている、気を張っている自分がいるということ。
気づくと、それが自分の中でパターンとしてあるなぁ、ということが明確になっていった。
小さい頃に親父がアレコレと口うるさい感じだったという記憶があるのだが、そういうことも関係しているのかも知れない。
これをどうにか消してしまおうということではなく、ただ、ああ、そういう捉え方のパターンがあるのね、と気づいている。

で、実際に生じていたのは、キッチンではなく、隣の洗面所にその男性が入っていき電気のスイッチを入れた「パチン」だった。キッチンは電気ついたままでした。

自分の捉えたことなのだという自覚があり、それを前提にして安心した関係性の中で何でも言える話し合い。これがあれば、「正しい/間違っている」の枠組みで対立することもないし、個々人がより自由闊達に動けるのではないかと感じている。

認識が根本的にひっくり返るサイエンズという手法。
興味が出てきた方は読んで理解ではなく、体験して理解することをお勧めします。