ギフトで溢れた世界

今、「自分を共感で包み込む100人ギフトセッション」という企画を展開している。
今回は「ギフト」について書いてみたい。

ギフトというのは「贈り物」ということ。
分りやすいのは、自然界はギフトで成り立っているということ。
例えば、今この時にもみんなが吸っている空気。これは、植物が二酸化炭素を酸素に換えてくれることで受け取っているギフトだと捉えられる。
ここ2年間は休んでいるが、田んぼをやっていた時にもたくさんのギフトを得ていた。
米は一粒の種籾を蒔くと、それが苗に育ち、そこから2000粒もの米に育つ。

庭の柚子や柿の樹はたわわに実りをもたらす。
我が家は自然の豊かな中にあって、今時期その辺を歩けば、栗、むかご、あけび、ミョウガ、銀杏などなど自生していたり、誰かが植えたりしたものを恵みとして受け取る(拾う)ことができる。
そこに、お金は介在していない。

では、自然に近いところに住んでいなければギフトを受け取ることはナカナカ難しいのか?
より深く観ていくと、実はそうでもない気がしてくる。

例えば、今この文章を打っているパソコン。
そもそも誰が開発したのか知らないけれども、誰かの手によってその設計がなされ、それを実際に製造するプロセスがある。その製造プロセス自体にも無数の機械や人の手が関わっている。その機械だって、誰かが開発したものだ。
パソコン本体だけではなく、文章を打つアプリケーション。そこにどれだけの人の手と資源が投じられているのだろうか。
パソコン自体はネット通販で購入したが、そのシステムも誰かが作っている。カード決済なんて仕組みは、僕の理解をはるかに超えたシステム。遠方から輸送してくれるシステムもある。

尊敬するティク・ナット・ハン師は「一枚の紙に雲を見る」と表現している。

こうやって観ていくと、なんと、身の回りにあるもの全てが、切り離されて存在しているのではなく、無数のつながりの中でギフトとしてココにあるように感じられる。
人間界も含めた自然界は、ギフトで溢れている。
「ありがたい」ことだ。

「支払いをしたから、物やサービスを得られて当然だ」というのはもはや幻想に思えてくる。
「価格設定」とか「適正価格」なんてのも幻想あるいはゲームみたいに思えてくる。

ギフトセッションには、自分が様々な形で得ているギフトを、自分なりのエネルギーを乗せて循環させてみようという意図がある。
「ギフトをもらえてラッキー」というところから、「では、自分は何をどうギフトしていけるか?」というモードへ。

実は実際の世界は、いのちも含めてギフトがメインで、マネーは補完的なものでしかないということを忘れずにいたい。