「責める」か「嘆く」か

「責める」というのはどんな感じか?
以前、サイエンズ探究会で話をしていた時に出てきたこと。
*何か自分の中にあるモヤモヤした感じ、鬱積しているものを相手にぶつける感じがある。
*根っこには分かって欲しい、というのがあるけれども、どこかで「分からせてやる」みたいなモードに切り替わってしまう。
*自分の側に余裕がないと、特に責めるモードになりやすいかな。
*「責め」たとしても、事態はだいたい改善はしない。なのに、なぜか責める。。。
*自分の中の不満や精神的苦痛を相手にも味あわせてやる、みたいなモード。

blame

責めるモードの時にその土台に「自分が正しい&相手が間違っている」という枠組みにどっぷり浸かっていることが多い。この場合の正しさと間違いは、道徳的判断や価値判断がベースにある。

そもそも、正しいか間違っているかということ自体が、100%の主観だ。それをごまかすために、世間や常識を振りかざす。
自分基準=自分都合。
ある時は「これはこうあるべきだ」みたいに捉えていても、状況が変わって、自分が別の立場にいると「まぁ、このぐらいは良いんじゃないか」みたいになったりする。
例えば、「事前に計画したのに、約束した時間に遅れるなんてあり得ない!」ってある時は責めるけれども。自分がバタバタしていて、どうしようもなくて遅れる時は「10分ぐらい大丈夫だろう」なんて心の中でつぶやいていたりする。
遅れる時は遅れる。

先日、あることが相手との関わりの中で自分が思い描いていたようには進まない事態が発生した。
その時に、自分の中に「責める」心の状態が発生していた。
「なんで!」「もっとこうしたら良いのに」「こっちのことも考えてよ」などなど、こちら基準で相手に迫る/攻める/責める感じ。
明確にそういった表現や態度を取っているわけではないのだが、自分のこころの状態は穏やかではない。

それに気付きながら、どうしたものかと。
自分のモードに気付きはあるのだけれども、ぐるぐると思考が巡る。
落ち着かせようとしても、なかなか思うようにモードが切り替わらない。
そこで、NVCで言われている「嘆く」というプロセスに入ってみた。
「そもそもどうなってんの?」というサイエンズ的な視点も持ちつつ。

生じた事態は「誰かのせい」ということが言えるのか。「責任」?
ただ、それが起きている。
雨が降った。日が差した。木が生えてきた。花が枯れた。ただ、それが生じた。
「雨が降ったのはこれが原因だ!あれのせいだ!!!」なんてことをする人はいないだろう。
人が介在する分、その人の意思や動き方というものはあるが、その人はその人の論理で考えたり動いたりしている。たまたま、それがこちらの期待や想定からズレているということ。ただそれだけ。
相手には相手の事情がある。
そして、そもそも因果関係って、実際どうなのか?
何かが生じるということは、かなり複雑な関係性や力学の中で生じている。
単一の原因があるワケではない。人間が「こうだ」と考えて、原因としているだけではないか。
実際のところ、どうなっているんだろうね?

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自分が望んでいたことがあったけれども、それが叶っていないということ。その原因探し、悪者探しをするのではなく、シンプルに「嘆く」。
満たされなかった大切にしたいことへの残念さをただ味わう。
この嘆きのプロセスを経ると、相手への「責める」気持ちがシューっという感じで落ち着いていった。
アレコレ理由づけや説得を自分にして、思考で折り合いをつけるのとは異なるプロセス。
体感覚や感情にも注意を向けながら、自分の内側にあるニーズとつながる。
NVC的には自己共感のプロセスだ。

「嘆くこと」が機能すると「責めること」から距離を取ることができる。
それを頭で理解するのではなく、リアルな経験とプロセスを経て正に腑に落とした。
なるほど〜、という感覚とともに「イエイ!」みたいな感じでお祝いの質がある。