サイエンズ的検討会 ルールと世間

サイエンズ的検討会という取り組みを糸島(福岡)にて開催している。

3月は「ルール/規則とは?」、4月は「世間/人の目とは?」というテーマで話し合いをした。10時から15時まで。大の大人が集まって、うーむと唸りながら笑いあり、涙あり、気づきありの豊かな時間。

「ルール」について面白かったのは「いつから、どうやってルールになるのか」という視点。ちょうど、2歳ぐらいの子どもがスケッチブックを踏んづけていた。「ああ、だめだめ、め~っよ」と言いつつ「なんでだめなんだろう?」と疑問がわいてくる。「生まれて始めて経験するルールってどんなんだろうね?」なんて疑問も。

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「これはこういうものだ」「常識だ」みたいな観念が頭の中にあるけれども、「なんで?」って素朴に問うと、意外と「なんでか」は答えられない場合が多い。
「ルールだから守る」というのも、「なんで?」と問うていくと、かなり脆弱だと思えたりする。
「そうなっているから」「それがここでのルールだから」という感じで進む物事があるけれども、実はそこに居る人たちのほとんどが、それを望んでいない場合もあったり。「もう、面倒だなぁ。こんなことは止めにしたら良いのに」と多くの人が思っているのに、検討することが欠けているからか、物事はこれまでのパタンで進んでいく。

この時の検討では「ルールの背後に「想い」があるのではないか?」という視点が出てきた。ルールだから、ということで従うのでも反発するのでもなく、その背後の想いに意識を向けてみるとどんな感じか?
ちなみにNVC的な視点を入れると、そこにニーズがあるということになる。

「世間/人の目」ってそもそも何なのか?
「評価の基準として自分の中にあって、それが内に向いたり、外に向いたり」という視点が出てきた。
世間、正しさ、常識、一般的には、って都合の良い「切り札」。責任を外に置くことができるし、反論を封じ込める機能もありそうだ。「多勢に無勢」で、数や力の大きな方が優位にあって、それを「世間」とできるのではないか。
でも、これってフィクションだよね?

周囲に合わせないとやっていけない、属するためには従う、出る杭は打たれる、といった視点も出てくる。そうなっていくと、ありのままの自分でいられないし、正直、素直といったことが難しくなる。

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世間や人の目ということを意識する際に「正しさ」というものがひっ付いている感じがある。「正しさってなんなんだ?」ということも話していくと、結局は「自分劇場」「自分の中での正しさ」でしかないという話になっていった。
ザ・自分基準だ。
そのアテにならない自分基準で自分を縛ったり、相手を縛ったり。なんだかとっても不自由な感じがしてくる。

世間や人の目というものが実在しているのではなくて、結局は「人間の考え」が作り出しているフィクション。

このことを語っているTEDトークを発見したのでこれもシェアしておきたい。
時間のある人はぜひ見て欲しい。
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』の著者:ハラリ氏のトーク。

Yuval Noah Harari
What explains the rise of humans?
(日本語字幕もあります)

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検討/探究はじっくりと腰を落ち着けて向き合う時間が大切だなぁ、とつくづく感じる。世間を検討していた際は、3時間ぐらいを過ぎたころから、ググっと何かが深まっていく感じがあった=という個人的な捉え方がある。

こうやって、立ち止まって「そもそも、これって?」という感じに探究をしていく時間。
その中で固定観念に気づき、それを外していけて、見通しが良くなったり、自分の中の自由度が増したり。キメツケが外れた分、創造性が発揮されてくるんだろうなぁ。

サイエンズ的検討会 好評につき、糸島以外でも展開する動きが出てきました。
「そもそも」や「本質」を問う、探究するプロセスで親しい感じが生まれてくる=お互いをより深く知っていく、キメツケや思い込みから自由になっていく。そんな場やネットワークがこれからどんどん広がっていくね。