お金のいらない国 落語会 レポート

筑豊の素敵な友人達と11/3と4で企画した「お金のいらない国」の落語会。
スタッフ含めて2日間で100人ぐらいの人に来場いただいた。

落語に惹かれた人、お金のいらない国に惹かれた人、いろいろいたみたい。

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この本は6年ぐらい前かなぁ、自然食のカフェに関わっている時に読んだことがあった。
「お金のいらない国では、仕事は社会への奉仕となる」という一節にすごく刺激を受けた。お金が介在しなかったら、結局は「愛」や「思いやり」の気持ちで人も社会も動くことになるわけだ。

もし、お金が発生しないとして、僕はどんな仕事をして、どんな生き方をするのだろうか?
突き詰めて考えても、結局、今していることとあまり変わらない生き方があるなぁ、と思った覚えがある。それは今もあまり変わらない。むしろ、確信度合いが増している。
現在は、ある程度の「ひとりお金のいらない国」を実践しているようなものでもある。

落語会にて、その後の食事会にて、ああ面白いなと思った視点と僕からの問い掛け(===で上下に囲われたイタリック部分)をいくつか。

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お金が無い社会
それでも、人々が仕事をすれば社会は回る。500年後の地球はこうなっているかもしれない。
お金を介在せずに、欲しいものは何でも手に入る社会。人が歓んでくれることを差し出し合う社会。だとしたら、どんな暮らしをして、どんなものが欲しいと思いますか?

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大量生産されたすぐ壊れるような粗悪な(安い=チープな)製品が欲しいですか?職人さんが手間ひま掛けて&想いを込めて作った長持ちして、質の高い製品が欲しいですか?
添加物や遺伝子組み換え食品が入っている食べ物が欲しいですか、安心出来る素材で作られている健康につながる食べ物が欲しいですか?
自分の所有や安全を脅かす敵を倒すための武器が必要ですか?

こう考えて行くと、安かろう悪かろうな製品は世の中から消えると思う。わざわざ健康を害する食品を提供する人もいなくなる。自分を守ったり、財産を囲い込んだりする必要もなくなる。争いが極端に減るだろうね。
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そういった社会の中で、人々は何をするのだろうか?
お金のいらない国では、仕事は社会や他者への奉仕となる。
みんなイキイキと仕事をする。みんなが愉しそうで、幸せそう。報酬がなくても、社会のため、人のために動ける。「お金なんかいらないよ」という世界がある。
お金にまつわる仕事や作業がなくなるので、その分の時間を自分が本当にやりたいことや他者が必要としていることに振り分けられる。

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お金のいらない国に住んでいたら、
あなたは、相手が歓ぶどんな商品でもサービスを差し出したいですか?
それは、今している仕事とどこがどのように違いますか?

農村で自然に寄り添った暮らしをしていると、一般世間ではどれだけ無駄が多いことかと驚愕することが多々ある。そして、その無駄の連鎖で「経済」が回っている。逆に言うと、無駄を連鎖させないと、経済が回らないという錯覚がある。
行き着く先は、戦争経済。経済の為に、戦争を起こし、人を殺す。街をぶっ壊しておいて、復興でまたひと儲け。
ほとんどが、金のため。お金がないと生きていけないと思っているから。
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お金のいらない世界では、全てが信頼で成り立っている。逆に、今の世界は多くが疑心暗鬼で成り立っている。結局はお金が全てという世界になってしまっている。

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お金を介在させない関係性の中で、結局は信頼が大切になる。信頼ってどうやって生まれるのだろうか?
ありのままのその人と、ありのままの自分を認め合える関係ということかな。
比較や評価から自由な存在ということか?
お金をどれだけ持っているか、どれだけ稼げるか、どういった暮らしを稼ぎの範囲でしているかといったことが、比較や評価とつながっている。
それを取り払ったら、人はもっと自由になれるだろう。
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面白い視点はもっとたくさんあるけれども、ひとまずこの辺で。
落語会を聞いて感じたこと、長嶋龍人さんと交流する中で感じたことを別途書いていこうと思う。