2つの「ありのまま」IFSの視点から

「ありのままの私」
「ありのままを受け容れる」
そういった類のフレーズをよく耳にする。

そもそも「ありのまま」ってどういうことなのだろうか?

今日は「現状のありのまま」と「本来のありのまま」の区別と変容についてIFSの視点を入れて書いてみます。

まずは、「現状のありのまま」
これは、今の自分、今ここのありのまま。
自分に引きつけて表現してみると、身近な存在に対してぶっきらぼうだったり、不機嫌になったり、社会や世界に批判的だったりする自分。
丸ごと自分なのだけども、全てを受容して愛せているわけでもなかったりする。
どこかで、自分の中に「嫌いな部分」を責めている部分もあったりする。
その対立構造が私の内側にある場合がほとんど。
この現状のありのままは、自分の本質ではなく、様々な経験の中で身につけてきたり、形成されてきたもの。
それは、習慣的なものだったり、深いレベルで持っている信念が作る言動だったり、家族や文化から受け継いでいるものだったりもする。
そもそも本質ではないから、変容する可能性もある。
このありのままを本質的に捉えて「これが私だから」としてしまうと、そこから変容していく機会に出会えない可能性が高まる。

もう一方に、「本来のありのまま」がある。
これは、その人の本来であり本質。

仏性やアートマンといった概念もこの辺を指しているのだと思う。
完全なる本来のありのままは、いわゆる悟りの状態。

そこには、身につけてきたことに向き合い、それらが変容したり手放せたりすることで近づいていける。
大切なのは、現状の自分を「乗り越える」「変える」のではないということ。
それ自体が、何かに「抵抗」している姿勢になっているから。
前提として「良いことと悪いこと」があって、「悪い・嫌な部分」を消そうとするエネルギーがある。
そこにいる限りはジャッジの世界にいるし、自分の内側の対立も残ったままになる。

ではどうするのかというと、「丸ごと受容する」ということが鍵になる。
これは、最近よく聴くセルフコンパッションと重なってくる。

いろいろな手法がある中で、僕が注目しているのがIFSが提示しているセルフとパーツの「内的対話」。

丸ごとの受容が難しいとしたら、それは自分の中で複数のパーツが同時に声を上げてくるので内的対立が続くから。内的対立があると、「深く聴く」ということも難しくなる。

例えば、部屋が散らかっていることに対して不快だと感じているパーツが自分の中にいる。
「不快なんだよね」と寄り添ってみても、どこかで「いやいやそれって、あんたの感覚でしかないから」「自分だって同じようなことをやってんじゃん」みたいなパーツの声も出てくる。
その状況だと深い内的対話には届かないし、対立構造も残る。

ここでセルフという内なる菩薩的な存在につながることで、パーツの声をひとつずつ丁寧に深く聴いていくことができる。
自分の中の菩薩につながることって、実はそこまで難しいことではない。

丸ごと受容なので、どんなパーツもウェルカム。ぶっきらぼうも、不機嫌も批判も全てウェルカム。
そこにどんな感情があって、意図や願いを持っているのかをジャッジなしに聴いていく。
その積み重ねの中で、身につけてきたことに向き合い、手放していくという「変容」が生じていく。
変容しよう、変容させようということではなく、自然とそれが生じていく。
そのプロセスの中で本来のありのままになっていく。

「ありのまま」と言っている時に、それが現状のことなのか、本来のことなのかを意識していたい。

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【関連項目】
100人ギフトセッション
本来のわたしに立ち返るセッション
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