「子どもを褒める」どんな意図がありますか?

先日の講座の中から出てきた疑問。
NVCの中で「つながりを阻む思考」として「Deserve-oriented thinking:特定の行為が報酬や罰に値するという思考」が挙げられています。
それに対して「子どもを褒めるのもこれに当たるのでしょうか?」といった趣旨の質問をいただきました。

それをきっかけに考えたこと。
褒めることがダメなのではなく、そこにどんな意図があるか?というお話。

大前提:「正しい、間違っている」という枠組み=発想を超える。
どちらも「人間の考え」でしかなく、そのぶつかり合いはただの解釈合戦だから。

NVCの世界観では「正しい/間違っている」という枠組みではなく、「何が大切か(そこにどんなニーズがあるのか)」という枠組みで物事を捉えます。

「子どもを褒める」のも「ダメ」なわけではありません。
それを前提としつつ、どんな捉え方ができるか書いてみます。
【どんな意図があるか?】
子どもを褒める時に、どんな「意図」がそこにあるのでしょうか?

例えば、自分が「この方が良い(正しい)」と思っていることを、その通りにやってくれたので「褒める」という場合、そこにどんな意図があるか?

「自分の思い通りになって欲しい」という強要のエネルギーがあったりするでしょうか?
深く見ると、そこには「操作/コントロール」の質感があるかも知れません。
何か「正しい行い」「人としての道」みたいなものが入り込んでいたりするかも知れない。
そして、「褒める」は力の上下関係の匂いもしてきます。
偉い人が部下を褒めるみたいな構図。

報酬や罰は「特定の行為」に導くため、そっちに向けて操作するためのツールとして機能し得ます。その世界では、こころとこころのつながりというのは難しくなるでしょう。
特に親子関係だと、力の差もあるので「親にどう思われるか」を気にしてしまうかも知れません。褒められたらOK。褒められなかったらダメみたいに。

もう一方で、何かができるようになった時に、子どもの成長を感じられて、それを喜ぶエネルギーから出てくる「褒める」にはどんな意図があるでしょうか?

例えば、嬉しさや喜びを分かち合うこと。お祝いすること。
このエネルギーの質って、誰もが持っていますよね。

そこには、力の上下関係 power over-under ではない、power with 水平の力関係=一緒に何かを作っていくような質がある。

上記の2つの意図から出てくる表現は、全く同じかも知れません。

「すごいね〜、できるようになったね。がんばったね」的な。

その元にどんなエネルギーや意図があるのか?ここが大切だと思います。

僕自身は1歳半のムスメッチと過ごす中で「おお〜、すごい!できたね」的な表現が自然と出てきます。感じとしては、お祝いや喜びから出てきたものです。

と言いつつ、「罰する」ことはないですが、「それはダメ」的なことを言って「ハッ」としている自分もいます。

【褒める/外の動機で動くことにつながる】
これはアドラー心理学に関連した『嫌われる勇気』という本を読んでいて出てきた内容(本が手元にないので、僕なりの解釈も入り込んでいると思います)。

「褒める」という枠組みだと、「褒められるからやる」という回路が出来上がる。
「認める」とか「評価する」というのも似た枠組み。

それをやりたいかとか、それが大切だから、という動機ではなく、「褒められるから/認められるから」が動機になる。
逆に「罰せられるから/怒られるから」やらないようにする、というのも同じ構図。

道にゴミが落ちている時に、周囲に人がいないと「ゴミを拾っても認めてもらえないから、拾わない」となり、人がいると「あ、人が見ているから、拾おう。褒められるかな」となる。

この視点はなるほどな〜と思いました。

実際にそうなるかは分かりませんが、自分の内側から湧いてくる動機で動く(ニーズにつながって動く)ということと、外のモノサシや評価によって動くということと、大きく違うと思います。

これも、どっちが正しいというわけではないので、自分がどんな世界で生きていたいか、という選択になります。
皆さんは、どんな世界を選びたいですか?

個人的には、自分の内なる動機で自発的に動いていきたい。
そのためにも、自分の内側にマインドフルであることが大切だったりします。