執着とニーズと

先日、ヴィパッサナー瞑想のコースに入った際に困ったことが起きた。
6人同室なのだが、「いびき」の音が思った以上に大きく、目が覚めてしまう。
何日かはしのげたのだけれども、コース終了の3日前に「大音量」のいびきが聞こえて来る。。。

瞑想の教えの中に「無常」がある。永遠に続くわけではないこの事態。それを思ってみる。少し落ち着く。
んが、いびきの音は全く止む気配なし。これまでの人生の中で聴いた最大音量にして最長の持続性。
はじめは「はぁ~、どうにかならんかね」と思っていたが、だんだんと「この人大丈夫かいな?呼吸のリズムも乱れまくりだし、途中で息が詰まって止まりそうだし、本人も深い眠りになってないだろうなぁ」と。
不思議と慈悲のこころが出てくる。以前なら腹が立っていただろう状況にて、意外と冷静。

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無常を思いつつ、1時半ということは、9時過ぎには床についたのですでに4時間ぐらいは眠れているから大丈夫だと自分に言い聞かせつつ。
いやはや、しかし1時半ぐらいから4時までほぼ止むことなくいびきは続いた(と自分は捉えている)。
僕は何度か短い眠りに落ちたけれども、熟睡とは程遠い状態。
瞑想コース中は意外と睡眠時間が短くても大丈夫なので「まぁ、なんとかなるだろう」と思っていた。

「この状況も修行なのか」「自分も気づかずにいびきをかいていることもあるかも知れないし」と思ってみた。これは、自分を嫌々納得させる手法だな。
自分のニーズに意識を向けると「コースに集中したい&しっかり眠りたい」ということと「本人にこの状況を知っておいて欲しい」というものが出てきた。こっちの方が自分自身に正直な感じがある。

いびきをかいている人は、大体そのこと自体に気づいていない。気づきがあれば、何か対策もできるだろうと思う。仰向けで寝ないなどなど。
また、日常の呼吸の仕方や食事などトータルに自分に意識を向けることも大切だと感じていた。なので、当人に知って欲しい、気づいて欲しいというのがニーズとして上がってきたのだと思う。その人の健康状態も気になっていた。
その根底にあったのは、相手を責めたい、どうにかしてやりたいという恐れではなく、その人の変化や気づきを願う慈悲の気持ちだった。

その日に瞑想コース指導者の方に「『こうしたい』という願いと『執着』の違いはどこにあるのか?」という質問をした。答えは「執着になっていると、手段を選ばずに何が何でもそれを得たい、達成したいとなる。執着がなければ、あとはダンマ(法)にお任せということですよ」ということだった。

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自分の中でこの「いびき事件」をどう処理したものか?「沈黙の中で犠牲になる」ということは避けたかった。自分のニーズを大切にしたいという思いがある。けれども、瞑想中は「聖なる沈黙」と言って参加者同士の会話は厳禁。
あれこれ考えて迷いもあったのだけれども、コースのマネージャーに伝言を託して、あとはお任せにした。
指導者の判断で「寛容さを培う良い機会なので、伝言する必要なし」という場合もあることは分かっていた。
自分なりにできることを働きかけて、あとはダンマにお任せする。そうか、これが執着と離れているけれども、自分のニーズを大切にすることなのか、となんだか嬉しい感じがあった。
執着になっていたら「何がなんでも当人に気づいてもらおう」「今度いびきをかいたらベットを揺らして起こしたら良いんじゃないか」「鼻を洗濯バサミでつまむか」みたいなマインド/エゴが暴走するのだろうね。背後には「あいつは間違っている/自分は正しい」という二元論がある。

ヴィパッサナー経験者と話をしていると「個々人の願いや欲求は全て執着である」みたいな理解をしている人たちも時々いて、窮屈な感じがある。
NVC的な「命のイキイキとしたエネルギーとしてニーズ」を大切にしつつ、それが執着にならないスタイルを意識したい。その際にマインド/エゴのニーズではなく、スピリットのニーズにアクセスしていよう。
「ベストを尽くしてダンマにお任せ」というのが自分の中でしっくりきている。
「ベストを尽くさずダンマにお任せ」的な人もチラホラ見かけるけれども、自分にはそのスタイルは合わない。自分の深い所とのつながりを感じられないからかな。

ちなみに、働きかけの結果、その日は奇跡的な静けさの中で眠ることができた。
朝起きた時のすっきり感と静寂に感動すらあった。
指導者の判断で「就寝時間後に部屋の移動」という措置が取られたのだと後で理解した。僕は深く眠っていたので、移動自体に気づいていなかったのだが。