ある日の自己共感プロセス

NVC/共感コミュニケーションの中で「自分に共感する」というものがある。いわゆる自己共感。
先日、あったエピソードと共にこの点を整理してみたい。

【出来事】
パートナーと文房具屋さんに行った。「書類を保管するフォルダーを見たい。それと、いつも使っているノートも買い足したい」ということだった。
博多で仕事を済ませた帰り道に、よく行く文房具屋さんに寄ったのだ。

【思考の世界/自分劇場】
自分の想定=自分劇場としては、「見るもの、買うものが決まっているから、ささっと終わるだろう」というもの。
が、しかし、パートナーはあっちのコーナーでボールペンを見たり、こっちのコーナーで便箋を見たりと僕の捉え方で「関係ない動き」をしている。
「おいおい、早くしてよ!」というモードと共にイライラがやってくる。



そして、思考が回り始める。
「人の時間をなんだと思ってんだよ。見るものは決まってんだから早くしろよ。ウロウロすんな〜」という相手へのダメ出し。これは反応として自分の中で出てくる。
それと同時に「相手のありのままを受け入れるんだ。イライラしてはダメだ。急かされるのが嫌だって聞いたばかりじゃないか」という自分へのダメ出し。
この思考の世界で右往左往していても、事態はどうにもならない。
自分自身の感情や想いを押し込める、あるいは無理して寛容なふりをする。どちらも根底に鬱屈した感じが残る。それが蓄積すると、多分、そのうち爆発する。

【自己共感/自分の感情とニーズにつながる】
イライラに気づき始めたら、そこから自己共感にシフトすることも可能だ。
今回は、自分の中ではこんなプロセスが生じていた。
「うーむ、なんだかイライラしてきたぞ。急いで欲しいけど、急げって言うと逆効果だし、相手には相手のニーズがあるし」みたいなことを思考で展開しつつ。

身体の感覚に意識を向けると、胸のあたりがなんとなく重い感じ。息苦しい感じもある。感情としては、「あ〜あ」みたいなうんざりした感じ、「どうにも動けない」もどかしさ、そして「どうしたらいいんだ」という混乱した感じがある。

その感情を手掛かりにして、その奥にあるいのちのエネルギーとつながる。自分のいのちはその瞬間に何を求めて動きたいのか。いのちの向かう方向性。

そこに意識を向けると、「この後どのぐらい時間がかかるのか明確にして欲しい」(明確さ)、「自分は別に見たいものもないし、無為に時間を過ごすのが嫌だなぁ。自分の時間を意味あることに使いたいなぁ」(意味や自由)という質につながれた。
「そっか、自分の時間を有効に使いたいんだなぁ」と自分に共感できると、モヤモヤした感じがサーっと消えていく。そして、「では、先に車に戻って書類の整理とか、今日の仕事に関してメモを作るとかしよう」と前向きにモードが切り替わる。
自分のニーズを自分で満たすアクションに移れると、不思議とパートナーの動きが気にならなくなる。「いろいろ見たいのだろうから、ご自由にどうぞ」みたいな感じにすらなる。

【お互いのニーズを大切にする】
「先に車に戻ってるね」と声をかけて、車内で書類の整理をしていたら、少ししてパートナーは戻ってきた。その後に、「うーむ、ゆっくり文房具を見たい時は、一人で電車で出てくる方が良さそうだなぁ。私は焦っていろいろ見るんじゃなくて、ゆったりと1時間ぐらいお店で過ごしたいもんなぁ」とつぶやいている。
相手には相手のニーズがあり、こちらにはこちらのニーズがある。
「こっちとしては、どのぐらい時間がかかるか明確だったら、それに応じて自分でどう時間を使うかを選べるんだよね。見通しが無い中で待つという状況でイライラしていた。自分の時間を自由に使いたいし、そこに意味を持っていたいから」。
お互いのニーズが明確になると、では、どうするか?という手段が見えてくる。お店に寄る際には、「どのぐらいの時間が必要か」を共有しておく、それぞれ自分の時間を使いたいように使えるように、本などを持ち歩いておく、などなど。それができるとお互いにストレスなく過ごすことができる。お互いのニーズを大切にして、お互いの人生をより素敵なものにしていく。

「NVCを知っている」というところから、「NVCを生きる」というところへ。日々のちょっとした出来事の中でもニーズ意識を持つことで、違った世界が開けてくる。