鈴鹿にてコースに参加中のこと。朝、散歩をしていると、使われていないマンションがあった。会社の寮として使っていたようだ。
かなりの部屋数だが使われている様子がない。
他方で住む場所がなく寒さに震えている人がいる。
食料も世界には溢れているのに、飢える人や不足感を持っている人がいる。
中古車屋さんにはたくさんの車が使われずに置いてある。
車を使いたい人はいっぱいいる。
一方で何かを必要としている人がいて、他方でそれを提供できる人や環境、資源がある。
けれども、そこにある所有や権利という「考え」が自由な活用を妨げている。
コント/ギャグ/パロディとしての社会そしてワタシたち。
権利、義務、所有、契約、責任などなど。考えが人を縛っていく。
これぞ、自縄自縛。
これらの社会的な考え方が深く人々に入り込んでいる。
マインドにガッチリとセットされている。
さらに奥深くを見ると「生きていくことは大変なことだ」「自分の身は自分で守らねば」「自分のことは自分でしなければ」という「守り」の思考パタンがありそうだ。
「守る」が大前提になっていて、そのために囲う、使わせない、競う、比べるといったことをし始める。
そこには警戒感、不安、恐れ、責めといったものも手をつないで並んでいるイメージがある。
「世界は危険なところだ」「人を見たら泥棒と思え」「人生は苦しみで溢れている」
スピリチュアリティの領域ではこういった守りの信念は「エゴ(利己性)」、「マインド」の作用とも言われている。
エゴの特徴は以下だと言われている。
過去を悔やみ、未来を憂う
常に不足感がある「足りない」「十分じゃない」
正しいか間違っているか/良いか悪いかという二元論で捉える
常に自分は正しい立場にいる
向き合われることを避ける/逃げる/常に生き延びようとする
エゴは大きな影響力を持っている。
当人がどのように世界や自分を捉えるか、そのフィルターを形成しているのもエゴの力だ。
エゴに浸かっている状態だと、そもそもの世界観、人生観、人間観が「不安や恐れ」に根ざしてしまっているのだ。
このエゴを検討していくプロセスも必要かな、と感じている。
「どうなっているのか?」エゴのメカニズム。
そして、それをどのように越えていくかという点も。
越えていくために、瞑想や深い共感、身体へのアプローチが有効に機能すると感じている。
【実際は?】
自分が持っているキメツケに気がつくことができると、「で、実際はどうなっている?」という発想が生まれてくる。
「そのもの」と「自分がそうだと捉えていること」を区別できるかどうか。
ある人に対して、何か違和感がある。あるいは反発があるとする。
そして、原因が向こう側にあるように感じてしまう。
あたかも、「違和感を抱かせる人」が存在しているかのように。
「あの人は人の話を聴かない。いつも自分の意見を言う人だ」
「あの人はいつも遅刻をする。こっちのことなどお構い無しだ」
「あの人は神経質だ。添加物について、何かと気にしている」
などなど。
思考が下す判断、診断、ジャッジ。その背後には「べきだ」「良い」「正しい」などなどの考え。
その人の言動が刺激になってはいるが、その人はそういう人なのか?
何かの刺激を受けて、自分がそういう人だと捉えているのか?
「こういう人だ」という頭の中の創造物。それは、実際ではない。
「その人そのもの」は広大無辺、捉えきれない奥深さがある。
その人が歩んできた経験、時間、環境、関係性、その複合体としての存在。
それを「こうだ」と固定できるはずもなく。
5分前に語ったことと、違うことを言い出しても、そこにはその人のリアリティとして何かがある。
「実際」とは、そんなやや混沌とした状態なのかも知れない。
社会を思った時に出てくるキメツケや思い込み。
実際に目を向けると、こんなイメージが出てくる。
人間は本来的には100%自由だし、何をしても良いし、何もしなくても良い存在。
生きているのは「今、ここ」だけ。
自然界の中でいのちの連なりの中で生かされているだけ。
その中で「より快適に、より良く暮らしたい」という方向性から生まれてくる人と人の関係や仕組み。
そこに社会の本来の姿があるような気がしてくる。
子を見守る親のような存在としての社会。
農村に住んで11年。1粒の種籾が2000倍に増殖して僕のいのちの土台となってくれる。そんな自然界を身近に感じてきた。また、人とのつながりの中で、役に立てたり、助けられたり。つながりの中で生きることとの心地よさ。
その中で、理屈抜きで「生かされる」「安心」ということを体感している。
安心がベースにあれば、お金で安心感を確保しようとしなくていい。
囲って自分を守らなくてもいい。
守りの姿勢を作り出すエゴに飲み込まれず、実際を調べていくと、自分劇場の思い込み、キメツケが見えてくる。
「お金がないから食べていけない」のだろうか。
「分かち合う気持ちと行動、社会の仕組みがないから食べていけない」のだろうか。
「実際はどうなっている?」
そして、自分はどんな実際を生きるのか?どんな実際を創造していくのか?
自分の在り方、そこが問われる。
「問題を引き起こしたのと同じマインドセットをもってして、その問題を解決することはできない」(アインシュタイン)