「社会」って、そもそも何だ? 社会を知る その1

先日、サイエンズスクールの「社会を知るためのコース」に参加してきた。
少し考えたこと、感じたことをシェアしてみよう。

そもそも、社会とは?
中学時代からだろうか、「社会」は反発の対象だった。社会は自分を縛ってくるもの、制限してくるものという捉え方をしていた。
大学時代にはそれこそ「社会学」も学んだのだが、その中で「社会は共に生きるための領域である」という見方を得た。なるほど、そう捉えると、社会のイメージが柔らかくなる。
そして、「より良い社会を主体的かつ意識的につくっていく存在を市民という」といった見方も知った。その路線で「市民社会」という考え方もけっこう学んだ。
一方で「就職活動」は社会からのプレッシャーだった。自分が社会の求める鋳型にはめられていく感覚。それが嫌で早々に就活はやめてしまった。

peoplesilhouettes

で、今回サイエンズの枠組みで社会にアプローチしていった。「前提」を取り払っていく、ゼロにしていくことで、より本質的に「社会とは?」ということを深めていけたと思う。

コースに出た後に自分の中にある「社会観」はこんな感じだ。

【社会とは】
社会とは、人の内面・実質を大切にして、心の充実や豊かさを実現していく仕組みや人と人の関係と捉える。そこには本質的な安心があり、それをベースにしながら一人ひとりが自由に生き生きと暮らし、その可能性や創造性を発揮している。
そこでは、モノやお金の量と幸せは直結していない。幸せは「どれだけ心が満たされているか」「生き生きとその人の本質を生きているか」「日々の中で歓びを感じられるか」といったところに本質があるだろう。
人々は満たされているので、モノやお金に関して、あるいは「何をするか」に関して、「もっともっと」「足りない足りない」というモードにはならない。むしろ、「あるもの」や「できること/できていること」に満足して豊かに暮らしを営むだろう。先では、お金や所有という仕組みも消え去るだろう。
社会は愛情深く、親が子どもの面倒を見るように、必要なものは必要な分を差し出してくれる。それは自然から、人との関係から、人が作った仕組みからやってくる。

こんな社会であれば、喜んで貢献したいし、それがあることで自分自身も安心できる。

これが社会の本来的な姿であって、人との関係であったとすると、現状の社会とは程遠いと感じる。そのギャップはどこにあるのか?

binded

【社会と個人の中にあるギャップ】
今の経済的なグローバリゼーションを大前提にして、「この仕組みでいく」という社会のモードがあると思う。私たちはその中に生まれ、それを受け入れざるをえない。その中では、この経済を支える人材を育てる教育がなされ、仕組みに適合する人間が「しつけ」られていく。「この枠組みの中で生きなさい、それしか選択肢はない」という考え方が圧倒的に力を持っている。
「生きていくためには働かなければならない」「お金がなければ生きていけない」「自分のことは自分でやる」といった信念が社会通念、常識、当然のこと、実際になっている。これが人々のマインドセットとなって、考え方や行動を規定していく。
この人間の考えはあまりに当たり前として捉えられているので、そこが問い直されることは滅多にない。
でも、よく観察すると、それは「単なる人間の考えでしかない」のだが。

もう一つは「他者はコントロール可能」という「観」があると思う。人をある方向に向けて動かす。そのために「法律」や「賞罰」、「権利」「義務」「責任」「契約」「所有」といったものが発明され、発達してきた。

土地の所有というものをひとつ取ってみても面白い。実際の世界には、土地の境界線などない。隣の敷地との境も、自治体の境界も、県境も国境も、実際にはない。けれども、人間の考えによって「ある」とされていて、杭を打ってみたり、バリケードを張ってみたりしている。

earth theearth

これが恣意的な「人間の考え」によって、成立しているだけという自覚があるかどうか。
当たり前をゼロにしたら何が見えてくるか?

本質から外れた「こういうもんだ」「こう決まっている」ということ。

現状の不自由な社会を成立させている根本的な原理は「これだ!」ということは難しい気もするが「所有」という「考え」はなかなか威力を発揮していると思う。
「誰かのもの」という考え。それによって、使わせないこと、使えないと思うことが成り立つ。例えば、ヨソの敷地にある柿の木。誰も取らないだろうが、収穫できないと思っている。自分には利用する権利がないからだ。所有者が他にいるから。
でも、カラスは全くお構いなしに柿をついばんでいくし、所有者も特に収穫しない。自然の恵みも結局はカラスの餌か地面に落ちて朽ちるかだ。
目の前にある資源を使いたい人が必要なだけ使うということを妨げる「所有」「権利」という「考え」。田舎にいると、こういった未活用資源がたくさんある。
そもそも、「柿の木は誰にも所属しない」。あえて言えば、柿の木は自然に所属しているだけだ。

「考え」が人を社会を「縛る」とはこういうことなのだ。
「考え」が、人を社会を不自由にしている。

種に特許がある世界。
土地に所有がある世界。
人をも所有しかねない世界。
考えや発明にも所有がある世界。

見方を変えれば、これって「コント/ギャグ/パロディですか?」という事態だと時々真剣に思えてくる。

つづく>>「人間の考えと実際 社会を知る その2」