自分の内側で生じることのきっかけと原因

「相手の言動は自分の感情のきっかけとなっても、原因にはならない」という理解がNVC・非暴力コミュニケーションのベースになっている。
これは、とても大切なポイントだ。サイエンズ的な視点も含めて、この点について自分の理解をシェアしたい。

よく聞くフレーズに「あの人の言い方で傷つけられた」「本当に人をイライラさせる態度だ」「否定された」などなどがある。
自分の感情の原因は外にあるという発想だ。

サイエンズ的に見てみると、「される/られる」ということ。これって、実際はどうなっているのか?

一品持ち寄りの食事会にチャーハンを持って行ったとしよう。
「このチャーハンちょっとベチャベチャしてるね」という一言を聞いた時、「否定された」という反応が生じないだろうか?

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「自分が持って行ったチャーハン」と「自分の価値のようなもの」が
イコールで結びついていて、瞬間的に「否定された」という反応が出てくるケースが容易に想像できる。
逆に、「このチャーハン美味しいね!」というコメントには「自分が褒められた」ような反応が出てくることも。

けれども、相手は相手の感覚や見解を「チャーハン」について言っているだけのこと。その人が捉えたことでしかない。目の前にある、「チャーハンそのもの」が「ベチャベチャ」か「美味しいか」は誰にも決めることができない。それぞれの解釈や見解でしかないからだ。
サイエンズ的に言うと「捉えたもの」と「そのもの」を切り分けることが大切になる。
聞こえてくる音という刺激を知覚して、反応しているのは、自分の内側でしかない。

ここを捉えそこなっていると、「せっかく持ってきた料理をけなす無礼な人」「相手の気持ちを考えずに、ずけずけものを言う人」といったレッテルを相手に貼ったりし始める。
そして、その人のいない場所で「あの人はああいうところあるんだよね」「そうそう、わかるわかる〜。私もこないだね」みたいな感じで同調トークが盛り上がり、その人像が出来上がってしまったり。

刺激に反応しているのは自分の内側であって、外に原因はない。
刺激と原因の取り違えを自覚できると、相手や外側を責めたりせずに、「ああ、自分の中で何かが反応しているぞ。何が起きているのだろう」と内省していくことができる。

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NVCの枠組みで言うと、自分の中のニーズ(大切にしたいこと)があり、それが満たされたり、満たされなかった結果として感情が沸き起こってくる。

例えば、友人たちとの食事会を企画した際に次のことが生じたとしよう。

シナリオA
主催者であるあなたは、仕事を終えて、時間の余裕も見ながら家で準備をしている。スタートは7時半だ。買い物も済ませたし、料理も順調に進んでいるし、焼きたてのピザも熱々で提供できそうだ。
とても気分良くみんなの到着を待っていると、電話が鳴る。
「ごめんごめん、ちょっと飲み物をあれこれ選んでいたら盛り上がっちゃってさ。まだ店にいるんだ。今から出るから15分ぐらい遅れそう。あ、それとAさんは来れなくなったてさ」
「あ、ほんと、OK。もう準備は整うからなるべく早めに来てね」と返答しつつも、内心は全く穏やかではない。
「なんだってルーズなやつらだ。7時半にスタートって言ってんだから、それに間に合うように調整しろよ。ピザだって冷めちゃうよ。しかも、Aさんはまたドタキャンかよ。料理の準備があるんだから、こっちのことも少しは配慮しろっての」とぐるぐると相手を責める思考が回り始める。
そして、25分遅れでメンバーが到着した際には時間にルーズで、人の気持ちを考えない無礼な人たちという捉え方がガッチリ頭の中にある。
「はい、これは7時半だったら熱々だったピザね」なんて嫌味のひとつも出てしまい、あまり良い雰囲気ではない食事会がスタートしてしまう。

シナリオB:主催者であるあなたは、仕事を終えて、買い物をして帰ろうと思ったら、お店が閉まっていた。まずい、今日は定休日だったか。別のお店に急遽向かうも30分の時間ロス。焦りながら買い物をして、慌てて家に帰る。ドタバタと準備をしている際に電話がなる。
「ごめんごめん、ちょっと飲み物をあれこれ選んでいたら盛り上がっちゃってさ。まだ店にいるんだ。今から出るから15分ぐらい遅れそう。あ、それとAさんは来れなくなったてさ」
「あ、そうなんだ。全然大丈夫よ。ごめん、こっちもちょっと準備が間に合ってなくてね。来てすぐスタートできないかも。焦らずゆっくり飲み物選んできてね」と、内心はホッとしている。15分遅れると言いつつ、多分もうちょっと遅れるかもな。30分近くあったら、料理の準備と片付けもなんとかなりそうだ。Aさんの分を準備しなくて良いなら、それも余裕につながるな、むしろありがたいぐらいだ。そんな思考がぐるぐる回る。
そして、25分遅れでメンバーが到着した際には「いらっしゃ〜い。ちょうど良いタイミングだよ。なんとか準備もギリギリ間に合ったかな。ちょっと仕上げを手伝ってくれると嬉しいな。どんな飲み物買ってきてくれたのかなぁ」なんて、イキイキした感じで迎え入れ、楽しい食事会がスタートする。

同じ設定で、状況は違えども「同じ刺激」に対する反応。
「ごめんごめん、ちょっと飲み物をあれこれ選んでいたら盛り上がっちゃってさ。まだ店にいるんだ。今から出るから15分ぐらい遅れそう。あ、それとAさんは来れなくなったてさ」
という電話での相手の言葉を聴いて、自分の中で何が生じるか?
一方は「配慮がなくて時間にルーズな奴らだ!」
他方は「ああ、それなら準備が間に合いそうだし良かった良かった。焦らなくて全然良いよ〜」

相手の言動は自分の感情のきっかけとはなっても原因にはならない。
NVC的には原因は、その人が大切にしたいこと、ニーズにある。

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シナリオAでは、自分が準備をしていることや段取りを組んでいることへの配慮や決めた時間を守る誠実さなどを必要としている。しかし、それが満たされないのでイライラした感情が沸き起こってくる。

シナリオBでは、スタートが遅れるかもしれないという不安があったが、相手も遅れると聞いて「安心」や「情報の共有」「気楽さ」といったニーズが満たされている。そして、ホッとしていたり、それなら間に合うなというところから楽しさを感じたりしている。

以前、「すべて自分劇場だ」ということを書いたことがあるが、自分の中から出てくる感情や反応は、自分の内側に原因があるということ。それが自覚できていると世界が違って見えてくる。
自分の外に向けて指を指しながら、相手を責めたり、外に原因を探し始めると、それは対立や「正しい/間違っている」の枠組みにどっぷりとはまることにもなる。
相手を指差すのではなく、自分の胸に手を置いて、自分に何が起きているのか、自分は「何を必要としているのか/大切にしたいのか」という枠組みへのシフト。

サイエンズやNVCを学ぶことで、世界の見方が変わるということ。
ぜひ実感してもらいたい。その分、生きるのが楽になると思う。