いのちが何を望むか?

先日、NVCを一緒に学ぶ仲間とオンラインでつながる時間を持てた。 昨年LP(Leadership Program)で一緒に学び、1年を通して定期的に話をしている仲間。 先日共有してもらった、ロバート・ゴンザレスというNVCトレーナーのワーク。調子が悪くなって、途中で抜けたので、中途半端な理解になっていた。その内容を1時間ぐらいかけて一緒にやってみることができた。 “Life in me, life in you. What’s that life longing for ?” という問い。それを投げかけ、5分間、自分の中に起きていることを表現する。沈黙もあり、言葉に置き換えることもあり。 聴き手は相づちすらなしでただただ、その場をホールドする=包み込んでそこに居る。 5分間ずつ語るセットを4セットやってみた。

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いろいろな気づきがあった。感覚的な領域なのと、言葉で表現しきれない領域なのだが、あえて言葉に変換してみる。
*身体の感覚に意識を向ける。その感覚を言葉にするのだけれども、言葉にした瞬間に、その感覚のリアリティが薄れてしまう。説明に意識が移ってしまう。言葉って、邪魔だなぁ、ぐらいに感じてしまう。 けれども、共有はしたいので、言葉にする。全てを表現できるわけではない。

*今回特にあったのは、胸の中心辺りの奥の奥で動いている振動=エネルギー。物質のミクロのミクロを見にいくと、そこには「現れては消える」波動があるだけ、という話がある。ヴィパッサナー瞑想(ゴエンカ式)で体感的に捉える領域。そこにあるのは振動、自分も振動でしかない。あるいは、泡・アワ。

*問いを日本語にすると「いのちは何を切望しているか?」といった感じになるのだが、「いのちは特に何も望んじゃいねぇよ」みたいな感じがあった。「何かを望む」ってことが、なんだか思考よりな印象。軽く反発している自分がいる。 ただただ、いのちは展開されている。 振動は、水源で水滴がポタリポタリと滴るイメージと結びつく。穏やかな強さ。そこにいのちがある。そのエネルギーの質感。それが流れ、広がっていく。
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*自分、いのちはそれ単体で成立しているのではなく、周囲の環境や相互作用の中で在る。足元の火鉢が足に暖かさを伝えてくれる。室内のひんやりとした空気が、キリリとした感覚をもたらす。「自分」の感覚だけれども、それは他と切り離されたものではない。 いのちも同じ。ただ、それが生じている。大きなつながりの中で。 その感覚と共にいたら、「大丈夫」という信頼と安心がやってきた。大元は振動。それが悲しみや怒りや喜びやいろいろなものとして現れる。けれども、それは現れでしかない。 大丈夫、大元はコレ、振動、つながり。信頼。そんな風に感じていたら、前の日にあったモヤモヤしたことなどが、「大丈夫」の元で溶解していく感じがあった。

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全体を通して、自分の中で生じている感覚領域と、「あ、これは思考/マインドでやってるなぁ」という領域と両方が入り混じる感じがあった。思考が悪いというわけでもないのだが、「意味付け」したり「物語」にしたりといった作業を瞬時にしたがる。それは置いておいて、身体感覚と純粋なインスピレーションと共に在りたい。その方が深く自分と、他の何かとつながれる感じがある。

一緒にワークをしてくれた友人の中にもいろいろな気づきや感覚があったみたいだ。それこそ、相互作用の中で成り立っている。全てはつながっているし、切り離されて存在しているものは何もない。