「言われた」って、どういうこと?

「聴く」という現象の中に面白いテーマがある。それは「言われた」というもの。
この辺を、サイエンズとNVCを融合しながら書いてみる。

ちょっと前にとある田舎地域のお祭りに参加した際に、地元に住む年配の人と話をしていて、こんな会話があった。ちなみに、その方はお酒がちょっと入っているのか、上機嫌に見えた。

「ところで、あんたいくつね?」
「今年40になります」
「へ〜、そうかい。若いねぇ〜。って言うか、そんなカッコして若作り!はっはっは〜」

こちらも思わず苦笑いというか、笑ってしまったのだが、瞬時に自分の中で起きていたことがあった。
speech-bubble-1604446_960_720

「若いねぇ〜」と聞いた時に「おお、若いって言われたよ=おれって若いんだ」
間髪入れずに
「若作り!」と聞いた時に「ゲゲっ、そんなに年齢とギャップのある格好かなぁ。もうこういう格好からは卒業した方が良いのかなぁ=若作りしている自分=そろそろそんな格好はやめた方が良い」
音としてその人の発言を受け取っているのはほんの数秒。
でもマインドは高速回転であれやこれや「考え」を巡らす。そして、嬉しくなったり、がっかりしたり。

不思議なのは、相手はその人が捉えたこと、感じたことをコメントしているだけなのだが、「言われた」となっている際には、それがあたかも「事実・実際」になってしまっているという点。
若い自分、あるいは若作りな自分がそこにいるかのようにこちらでも捉えてしまう。

実はこれって、相手の発言を聴いているようでいて、聴いていない。自分のマインド・思考回路の中で「アレヤコレヤ」を総動員して自分劇場を展開している状態だ。
ひどい時は、「失礼なことを言う人だ!」みたいなジャッジが始まる。

笑い話のようだが、日常的にとてもこういった反応が多い。
「言われた」、「批判された」、「否定された」などなど。
あるいは「のろま」「まぬけ」「だらしがない」「不誠実」などなどと「言われた」「レッテルを貼られた」。実は「かっこいい」「美しい」「素敵」「上手」なんてのも同じ構図。

「された」という場合に、ひと呼吸置いて冷静に状況を観察してみるとどうだろう。

相手には相手の世界と感覚があって、何かを言ったりやったりしている。
その奥にあるもの、その人が大切にしていることや、願い。
あるいは、その人の中でイキイキと躍動しているいのちのエネルギー。
そちらに関心や注意が向くか、自分の中の反応に飲み込まれて自分劇場の中で右往左往するか。

現象として見れば、その人はその人の感覚で「何かを言っている」だけのこと。
「言われた」も「批判された」もこちらで勝手に生じている解釈だし、受け取りでしかない。
けれども、その勝手な解釈から「失礼なひとだ」みたいなストーリーが展開され始めて、争いに発展したりもするだろう。悲劇なのか、喜劇なのか。

年配の方の中では、何か気楽さや冗談めいた感じ、楽しくコミュニケーションをとりたいというような感じがあったのかな。聴いてみなきゃわからないし、まぁ、聴くまでのことでもない気もするけど。

reminding-2941337_960_720

これまで生きてきた中で蓄積してきたたくさんの反応の種や信念があるから、反応はどうしても出てくる。
「観察」と言った時に、自分の中でどんな反応が生じているのか?そこにも焦点を当てることがとても大切だと思う。それは瞑想やマインドフルネスの中で着実に培われる感覚も僕にはある。

「言われた」「批判された」という捉え方(解釈)をしてるな、と気づいた時に、ちょっと立ち止まってみると、どんな感じがするかな。
そもそも、そこに気づけないとどうにもならないかも知れないけども。