「怒り」にどう対応したら良いのか。意識上では怒らないように、と思っても、反応として出てくる。これまで一人で暮らしていたのが、今は「家族をやっていく」ということで2人暮らしになっている。刺激が多いからなのか、暮らしの中で出てくる自分の中の「怒り」。 マインドフルでいようと努めても、出てくるものは出てくる。 ちょっと困っていた。
頭では「相手の言動は自分の感情や反応のキッカケとはなっても、原因ではない」とわかったつもりになっていても、どうしても「相手が悪い」というモードになってしまう。 「あんたが怒らせる」という構図。冷静に見てみると、反応が起きているのは自分の中。 自分の中がどうなっているのか?一人で考えようとしても、限界がある。 一緒にNVCを学んでいる仲間に共感モードで聴いてもらうお願いをした。 自分の奥深いところに何かがある気がしていた。 怒りが出てくる状況を説明する。 こんなことがあって、こんな怒りが出てきたんだよね、と語っていると、呼吸が重苦しくなってきた。 身体はすべてを知っている。
呼吸も苦しいし、胸のあたりも苦しい。かなり鮮明な身体感覚。 身体の感覚に意識を向けて、それと共にいる。
すると、ふと小学2年生ぐらいだろうか、「苦しかった」経験が浮かび上がってきた。 まさに、あの時の感覚だ。 体育館の倉庫で友達と飛び跳ねて遊んでいた。フワフワしたマットの上で飛び跳ねていたのだが、ちょっとした拍子にマットとマットの間に落ち込んだ。 スポッとはまりこんでしまった。前後から挟まれるような状態になり、ものすごく苦しい。圧迫感。 ほぼ身動きが取れない。 その状況下でリトルアキラには、「やべぇ、ひょっとして死ぬ?」みたいな感覚が瞬時に来る。
その直後に反射的に「ふっざっけんなうぉらぁ〜」と火事場の馬鹿力的なエネルギーを出して、なんとかその状況を抜け出した。実際、どう抜け出したかは覚えていないのだが、まさに「怒り」のエネルギーを使って、突破したという感覚がある。 身体の感覚にアクセスして、そこから出てくる記憶に寄り添う。
ほほう、そうかぁ、この苦しさの感覚はあの時の感覚なのか、と妙に納得。 その経験から小さな自分は、こんな信念を作り上げたのだ。 「自分でどうにもできそうもない状況は、「ふっざっけんな」という勢いの怒りのエネルギーで突破する。それによって、自分が傷つこうが、人が傷つこうが知ったこっちゃない。生き延びるために、怒りを使う。」 これは、いわゆる「聖なる誓い」。
この誓いが無意識下にしまわれている。自分じゃどうにもできそうもない状況が出てきた時に、苦しさを感じた時に、怒りで突破しようとするパタンが反応として出てくるのだ。 生き延びるためなので、反射的に出てくる。
自分の中にこういうパタンがあるんだ、と少し距離をとって見ることができた。 今の自分が聖なる誓いを聴いてみると、ちょっと笑えてしまう。その当時は必死だし、生き延びるためにその誓いを立てたのだけれども、「まぁ、別の方法でも状況は改善できるから大丈夫だよ」と言ってあげたくなる。
話を聴いてくれた友人が「怒りはラベルだよね。本質的にはエネルギー。それを怒りって呼んでるだけだ」といった趣旨のコメントをしてくれた。 このコメントからのインスピレーションもあって、状況を打開するのに、エネルギーを使うのだが、それを怒りとして用いなくても良い。そのエネルギーを創造性やユーモア、協力といった形で使うことを今の自分は選択することができる。
身体の感覚、過去の記憶、そして今ここの自分。それを俯瞰することで、自分の中で統合される何かがある。 このプロセスを経ると、次に怒りのエネルギーを察知した時に、どれだけ自分がマインドフルでいられるか?そのエネルギーを創造性やユーモアなど他の表現に切り替えられるか?そこに意識が向く。それ自体がチャレンジだが、どんな変容があるのか自分でワクワクしている。
怒りをごまかすのでも、抑圧するのでもなく、その種になっているものを見にいくプロセス。 反応の源泉を見ていかないと、そこからは自由になれない気がしている。 怒りを取り扱うディープなワークショップなんてのも面白そうだ。