共感と同調

共感的コミュニケーション(非暴力コミュニケーション/NVC)のワークショップを福岡県下で開催してきた。
WSをしながら感じたことや気づきを書き記しておこうと思う。
参加者に話をすることとも重なるので、WSの雰囲気もつかんでもらえると良いな。

今回は共感と同調の違いについて。

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一般的に捉えられている「共感」とはどんなものか?
手元にある岩波 国語辞典を引くと以下が定義されている。

「共感:他人の考え・主張に、全くそうだと感ずること。その気持ち。同感。」

巷でよく耳にするのは「分かる分かる、そうそう、だよねぇ、共感できる~」といった言葉だ。
この共感感覚だと、「自分の捉え方はちょっと違うなぁ」という場合に共感はできないことになる。
これは、見方を変えると共感ではなく「同調」や「同意」だということが分かる。「分かる分かる」という感じで相手と自分の感じていることが同じように思える状況のことだ。

NVC的な共感というのは、このもっと先をいく。あるいは深く潜る。
相手に必ずしも同調できなくても良い。
ただただ、相手のリアリティに寄り添う。その言動の奥にある相手の感情(気持ち)とニーズ(必要としていること)に寄り添う、それを受け止めるということだ。

例えば、こんな会話。日常の中でよくあると思う。

Aさん「昨日見たマイケル・ムーアの「世界侵略のすすめ」はかなり面白かったよ」

Bさん「え~、なんかあの人の映画って批判的で好きじゃないなぁ」

さて、Bさんは自分の感覚を伝えているだけなのだが、そこに共感はない。同調もない。
同調が生じる時だけ「分かる分かる、共感できる~」となるわけだ。

上記のやり取りでAさんは、自分の言っていることを受け取ってもらえた感じがするだろうか?
僕だったら、次から「この人にはムーアの映画について話すまい」と思うだろう。
こんな経験、みなさんもないだろうか?

BさんがNVCを理解していると、Aさんに同調はできないけれども共感することはできる。
例えば、こんな感じだ。

「へー、そうなんだ。面白かったんだね。良い休日を過ごせてリフレッシュできたのかな?」
といった形で相手のリアリティ(感情=面白かった/ニーズ=リフレッシュ)を思いやって寄り添うことができる。

NVC的なやり取りだと、「事柄や考え中心」から「気持ちや大切にしたいこと中心」に軸がシフトする。

その分、共感、つながり、相手や自分自身への理解といったものが深まっていく。
これは経験的に理解しないと、腑に落ちる感じはないと思う。
社会の中に共感的に聴けるメンバーが増えていくことで、共感文化が育っていくだろう。