「自然に生かされている」という気付き

先日書いたブログの記事「2つの視点 MAN/Chaplin」。
2つの対照的な人間像を紹介したもの。
フェイスブック上でいくつか反応をいただきました。その中で、

「目 の前のありとあらゆるものに命を認める生き方が鍵だと思います(尊敬する野口法蔵、ティクナットハンも言っています)。頭では理解できているんだけど、こ の認識はヴィパッサナー的な認識の仕方を深めることで(もしくは他の方法:稲刈りとか)、実感を伴って体感できるものなのでしょうか?」

という質問をいただきました。

頭では理解できるけれども、腑に落ちない。あるいは、具体的な行動レベルでの変容が難しい。
こういうことって、僕の中にもたくさんあります。皆さんの中にもたくさんあるんじゃないかな。

この質問に応えるべく書いてみたい。

僕は「全てはつながっている」「人間も自然の一部」というディープエコロジー的な考え方と感覚を持っています。

サティシュ・クマールさんのスタンスにはとても親近感を覚えます。

こちらの動画「エコロジーとエコノミー」もぜひご覧ください。

都会(と言っても郊外でしたが)で育っているので、自然と身近な暮らしではけっしてなかった20代前半。仕事で農山村を駆け回るうちに、自然ということが身近になった。
農村に移り住んで、田畑に働きかけているうちに、なんだか不思議な感覚が自分の中に芽生え始めた。
言葉にすれば「自然に生かされている」ということ。あるいは、「圧倒的な安心感」。それが、考えとしてではなく、感覚として自分の中にあった。あるいは、それに「気付いた」ということ。


1粒の種モミが、これだけのお米になる(横向きの赤米は1株分=つまり、元は1粒)

1粒の種モミが2000粒のお米になる。「米を作る」などと言うのは本当におこがましく、僕はただ環境を整えているだけ。「百姓は稲を作らず、田を作る」という言葉があり、その通りだと思う。水、土壌、太陽の光、微生物、昆虫、風、いろいろなものが重層的に関わる中で、稲が育つ。


田んぼには小さな貝も生息している。

そして、育った稲は僕のいのちになっていく。生かされているから、キレイに生きたいと思うようにもなった。

この感覚、気付きに多くの人にもアクセスして欲しいと思っている。半農半SB合宿をやっているひとつの理由はココにある。
合宿で意識している「仕掛け」、僕が日常で意識していることを追って紹介していこう。