自分では自分のことやその歴史を知っているつもり。けど、他者から見たら全くの未知。
ワークショップや講座などの仕事をしていく上で、自分がどんな人間なのかの一端を知っていただけたらと思い、ライフヒストリーを書いてみることに。
beart つながりぢから探究ラボ
代表:神山 彰(JIN Akila) ライフヒストリー
【誕生から就職まで】
1977年、母の里である北海道釧路市で誕生。男3兄弟の次男。後藤 彰(2017年に結婚して神山 彰に。養子ではない)。東京・稲城市で育つ。
幼稚園は今で言うオルタナティブな自主保育なのだろう、ヤギ、七面鳥、チャボ、うさぎ、インコなどがワラワラいる環境で過ごした。動物の世話をしたり、田んぼで泥だらけになったり。
小中高は「和光学園」に通う。自由な校風で特に校則もなく、私服でのびのびと学校生活を送っていた。学校が嫌いとか行きたくないと思った記憶はない。
先生方もユニークで気さくな人が多かった印象。
小学校6年生の時に沖縄に平和学習旅行に行き、戦争跡を見たり語り部の話を聴いたり。中学3年の時には秋田に田んぼ体験(稲刈り)+αの合宿に行ったり。高校では受験も無関係に好きなサッカーに明け暮れたり。
学校を通して色々な経験をさせてもらった。
小中高を通してサッカーが好きで、自分自身を鍛えること、上達することに情熱を持っていた。
「これ」と決めたことには、かなり集中してストイックにのめり込む傾向がある。
高校の時には30分ぐらいかけて自転車で通学。トレーニングを兼ねて平坦な道ではなく、2箇所それなりのアップダウンがあるルートを通っていた。しかも、自転車のギアは一番重くして。仲間と筋トレもだいぶやっていた。
高三の夏までサッカーに明け暮れていたので大学受験どこ吹く風。
大学に行く気がせず、「ムツゴロウ王国」に行こうかと真剣に考えていたが、面談で担任に「へ〜、ごとー君は知的好奇心ないんだぁ。私は大学行って、けっこう面白かったよ」と某大学のパンフレットを渡される。
次の日には「この大学は面白そうだ。よし、ここに行こう」と心を決めるも世の中そんなに甘くなく、予備校通いの一浪。
高校が受験校ではなかったこともあり、偏差値40弱ぐらいからスタート。起きてる時間は常に勉強していた。犬の散歩をしながら英単語を覚え、予備校に行く電車の中で英会話のラジオ講座を聞いて、夕食時には時事ネタをインプットするために毎日ニュースを見ていた。
集中力とのめり込み効果もあり、最終的には偏差値が70ぐらいになっていた。
結果的に某大学ではなく、中央大学総合政策学部に入れることに。
実家から比較的近かったので通う。
海外育ちで英語ペラペラみたいな人やアーティスト系の人など多彩な友人たちに恵まれたキャンパスライフ。「大学には学びに行く」と決めていたので、サークルなどには参加せず、かなりの時間を研究に費やしていた。
長期の休みにはバックパックを背負ってアジア、中東、南アジアを2ヶ月弱ぐらいの単位で放浪していた。「社会や文化が違うと、常識って通用しないんだ」「いろいろな社会や暮らし、価値観があるんだなぁ」ということを身を持って納得。
バックパッカー@ラオスの農村
サドリア・モジュタバ教授と出会い、学部生から大学院生までが一緒に学ぶ空間で「社会」について学ぶ。
「社会から距離を取って、問題意識のある現象を見る。そのためのツールとして理論や概念を徹底的に学ぶ」というスタイル。しかも「英語で読んで、英語でレポートを書きたまえ」と。
「あなたの問題意識は何ですか?」とよく問われていた。自分が社会のどんなところに関心を持っていて、そこにどう関わりたいのか?だが、ほとんど社会経験のない自分は、それを頭と知識で何とかしようとしていた。
「社会変動」「主体性」「公共性」「権力」「知識社会」「社会意識」などなど、社会学から哲学、現代思想、政治学まで幅広くひたすら文献を読み、ゼミで議論をし、レポートにまとめる作業は、純粋にものすごく楽しかった。何かを発見するような感覚やより深く知っていく感覚が面白かったのだと思う。
情報や知識収集、統合、そして編集や発信というスキルはこの頃に鍛えられている。
学部生も院生も一緒にゼミ合宿(私は写っていませんが)
卒論は「選んでフリーターになる人の主体性について」というテーマ。
一般の企業に就職するのではなく、自分がやりたいことや夢、ヴィジョンを軸にしてライフスタイルを選んでいる人のインタビュー記事などをたくさん調べる。主体性や再帰性といった概念も研究した。
調べて書き進めるうちに「人の主体性はいいけど、自分の主体性ってどこにあるんだ?この先何をしたいんだ?」と人生の暗礁に乗り上げる。
教授からは「それはあなたの人生の課題。卒論は一つのステップなので、まずは論文を仕上げなさい」と。
自分が社会の中でどう生きたいかは全く分からなかったが、研究が魅力的だったのと、働きたい企業がなかったので、そのまま中央大学の大学院へ。
「現状の社会を理解しつつ、いかに望む社会につながる知識を作り出していくか」ということをテーマに修論を書く。
修論を書き終わった直後に「人がやっている営みは置いといて、自分はどんな領域で自分ごととして社会と関わりながら知識を生み出したいのか?」と自問。
「自分ごとにできる領域やテーマ」が明確にはなかった。今思えば、社会経験が希薄すぎるので、無理もない。自分のテーマを見つけるためにも一度社会に出てみようと決める。
修論で事例のひとつとして取り上げた環境NGOナマケモノ倶楽部が面白そうだったので、ボランティアで関わる。1年ぐらいは理事もさせてもらった。
その関わりの中でピースボートに乗せてもらったり、いろいろなスローライフ系のイベントに関わったり、「スロービジネス・キャンペーン」といったものの企画と運営に関わらせてもらった。
ピースボートに乗って、インド・ムンバイへ。
WSF 2003 (World Social Forum)にて、スローライフムーブメントに関する事例発表をしている。
愉快な仲間や先達に囲まれて楽しく活動していたし、こういったつながりの中で何とか生きていけるんじゃないかと思っていた。あわよくば、何か仕事のオファーがないかな、と妄想したりも。。。
基本のライフスタイルは使わず稼がず。大学院時代にもらっていた奨学金を活用しつつ、実家にいたので生きてはいけた。
が、中長期的にはボランティアでは「喰っていけない」ということを実感。
かといって、自分がスロービジネスで起業するイメージも勇気もなく悶々としていた。ここでも、「自分はこれをやっていきたい」というテーマが見つからなかった。
この頃は「自分のやりたいこと」をやってイキイキしている同世代と自分を比べて、自分はどうしたら良いのかわからず途方に暮れている感じだった。
いろいろ手を出してみるものの、決め手がない。
そんな時に、「ここなら働いてもいいかな」と思えた農文協という出版社の入社試験に合格することができた。
面接では常務から「君は営業に向いてなさそうだな〜、ガハハハ」と開口一番で言われる。「あ、ダメだこりゃ」と思った。
後日、人づてに聞いたのは、「ゴトーはズカズカと面接室に入ってきて、ドカッと座って、こっちをじっと睨みつけるみたいな態度だったからビックリした」らしい。
当人はだいぶ緊張していたのだと思う。。。
筆記試験の点数はかなり良かったのだと思う。何はともあれ、大学院出て1年経ったタイミングで入社させてもらえてとても助かった(そもそも院卒で試験を受けられる会社が限られていた)。
思えば、自分の関心があること、好きなことを模索しながらも突き詰めていくライフスタイルだった。
ありがたいことに、それを可能にしてくれるバックアップと人とのつながりがあった。
>>続く