「パーツワーク」という手法で「自分を見にいく」ということを定期的に仲間とやっている。
パーツワークはIFS (Internal Family System) というセラピーの手法から来ていて、NVCの共感と組み合わさると「自分を見る」「自分に共感する」ということがグッと深まる印象がある。
ある日のプロセスを紹介してみよう。
この日は「自分の中の不機嫌さ」ということをテーマにしてNVC仲間に話を聴いてもらった。「自分=不機嫌な人」というのではなく、「自分の中に不機嫌なパーツがいる」という理解からスタートする。
ちなみに、このパーツは以前にも見にいっていて、「その後どんな感じかな?」というフォローも含めてプロセスに入った。
自分の中の不機嫌なパーツに意識を向けると、以前とは違った身体の領域にそれが居る。右胸の辺り。何だか重苦しい感じがある。
それを感じていると、革製の水袋のようなイメージが浮かんできた。
その水袋は中に水が入っていて重みがあり、それが木の蓋の下に釣り下がっているようなイメージ。
重みで引っ張る形で、内側から蓋をしている。
そのイメージを感じていると、ふと「自分の感情は表には出さない」という感覚が出てくる。
それは、中学生ぐらいの時の感覚。
自分の中に何か感情があっても、それは表には出さない。蓋をして抑えておく。
特に「誰かのことを好きになった」なんて気持ちは出さない。
水袋で蓋をしておく。
胸の辺りの重苦しい感じから、当時の何だか重苦しい感覚が思い出される。
そして、ふと出てきたのは「ごっちゃん(当時のあだ名)はクールだからね/硬派だよね」というフレーズ。
よく言われていたな。
何でそう言われるのか、よく分からないまま、何故かそれが自分のアイデンティティになってしまっていた。
「自分はクールなのだ」「自分は硬派なのだ」。
そんな自分には、「誰かのことが好きだ」なんてことがあってはならないし、表現してはいけない。だから、気づかれないように蓋をして、感情は抑えておく。
「感情を抑えておかなかったら、どんな嫌なことが生じるの?」とパーツに聴いてみる。
「もし、そんな感情を出してしまったら、「自分じゃなくなる」危険があるし、今安定して認知されている「クールな自分」が否定されてしまう。」
という感じがパーツの声として、自分の中に出てくる。
周囲から言われてきたことで、「自分のスタイルはクールな感じなんだ」と自分で設定している。その設定で無難に過ごしていれば、出る杭が打たれるようなことはないし、現状を生きていける。
ぶっきらぼうで、つっけんどんで、あまり多くを語らず、物静か。
そのパーツがとても大きな影響力を持っていて、「わたし」を覆っている。
多分、中学生の時の自分の中はこんな風になっていたんだろう。
今でもそのパーツは自分の中に生きている。
右胸の辺りの重苦しさとそこにまつわる自分の中の感覚や体験に寄り添う。
「そっかぁ、そんな経験があったんだねぇ」
「自分が自分じゃなくなると思って、クールさや不機嫌さをキープしてきたんだねぇ」
「同時に願っていたのは、もっと軽やかに柔軟に生きたいように生きることだったのかな」
「誰かのことを好きになるってことを、もっと素直に受け容れて、その子と仲良くしたかったのかな」
そんな風にパーツの経験や声を、セルフ(Self)という立場から聴いていくことで、共感が生じる。
ここは内的な対話のプロセス。
頭で答えを探すのではなく、プロセスを信頼して、そこに委ねていると、ある意味で勝手にいろいろなものがイメージや言葉、感覚と共に浮かび上がってくる。
それをキャッチする感じだ。
自分の中のエネルギーを感じていると、水袋が変化し出す。
重しとして機能するのではなく、膨張と収縮を繰り返すより軽い質感になってきた。
吹子(フイゴ)みたいに、何かを吸い込んで、何かを吐き出す。
入ってきては、出ていく。それは何かを吸収して、そして表現するイメージ。
そっかぁ、自分の中のいろいろな感情を蓋をせずに自在に表現していく。それが本来的に在りたい姿なのかな、と。
同時に、以前NVCのトレーナーが言っていた「相手との対話の中で、感情を吸い込み、ニーズを吐き出す」という在り方にもつながると感じた。
自分の中が軽くなった感じもある。
自分では見えていなかった側面が明確に見えた感じと、その機能の仕方は今は必要ないなぁ、という感覚と。
こういった「自分を見る」プロセスを重ねていくことで、より自分というシステムが統合されていく感覚がある。
この時の話は60分ほどだったか、安心してリラックスした状態で、自分の内側に意識を向け、聴いてもらうあっという間の時間だった。
こんな感じで気軽に自分の中を見に行くことが文化になったらいいな、と密かに思っている。
3回セットのパーツワーク+共感セッションも展開しています。
お気軽にどうぞ。