嘆きをコミュニティで受けとめる

前回書いた共生革命リトリートの中でのひとつのテーマは「痛み/嘆き」だったと思う。
人は誰しも生きる過程でさまざまな「痛み」を抱える。それはその人にとっていろいろな意味合いを持つ経験だ。

リトリートではジョアンナ・メイシーが体系化した「真実のマンダラ」という儀式的なワークを執り行った。個人的には3回目の参加だったが、今回を含めどの場でも「自分自身が嘆きを表現する」ということはあまりピンとこない。
その場にいて、何か浮かび上がってくるものもあるのだが、それを思考でやっている感じもあり、表現しようというところまでいかなかった。それはそれでマインドが自己規制しているのかなぁ、と自分を見つつ。

今回の収穫としては、参加者の多様な嘆きを聴きながら、それが「私たちの嘆きである」という感覚が明確にあったこと。

その「痛み」が生み出された背景や状況に意識を向けた時に、誰が悪いとかどこに責任があるといったことではないことが見えてくる。
例えば、ある人が親からの受け取った言動から来る「痛み」があるとする。そこで親を責めることは分かりやすい。
けれども、その親自身が祖父母やこれまでの経験から受け取っている「痛み」もある。
「AだからBなんだ」という単純な因果関係は実は幻想でしかないし、「誰かの責任」というのも思考が作り出しているストーリー。

なので、できることとしては「それが生じたこと」への悲しさを味わい、ただただ嘆くこと。
痛みを生み出している社会の制度や関係性、あるいはシステムに対しての「あ〜ぁ、悲しいなぁ」という気持ち。そのエネルギーを感じて味わう、あるいは表現して受け取ってもらうことが嘆きにつながる。
あなたの痛みと嘆きは、私の痛みと嘆きであり、わたしたちの痛みと嘆きでもある。

その感覚につながりながれると、「いやぁ、本当にもっと素敵な社会にしていこうぜ」って心の底から思えてくる。

リトリートのコミュニティで6日間だけだけども過ごしたことを振り返ると、「痛みが生じにくいシステム」と「痛みが生じたとしてもケアできるシステム」の二つの側面が必須な気がしている。

これは1歳になる小さい人と接していても感じること。
一切の痛みを感じないように、危なくないようにするのは不可能。外界からのいろいろな接触やアクシデントもある。ただ、何かあった時に「痛かったねぇ」「怖かったね」「嫌だったのかな」と寄り添えるモードがこちらにあるかどうか(「大丈夫だよ」「ごめんごめん」ではなく)。

そして、それは「お祝い」に関しても同じ視点で見ることができる。
あなたのお祝いが私のお祝いであり、わたしたちのお祝いである。
お祝いを歓び合えるシステムとよりお祝いに気づける・つながれるシステム。

そんなしなやかさのある関係性、コミュニティ、社会。

リトリートは6日間限定だったけど、これを1年いや10年いやいや100年続けていったら何が生まれるのだろうか?興味津々だ。