僕が今住んでいる土地に春が来る。
大地からたくさんの命が顔を見せ始める。自然の拡がっていくようなエネルギーを感じる。
ここ11年、春が来ると「そろそろ田んぼのシーズンだな」というパタンがあった。
自分の食べる分の米は自分が関わって育てる/育ってもらう。
それを「よし」として、自分の価値にしてきた。
NVC的に言うとニーズとしては、「自立」や「自分で責任を取ること」といったところか。
10年以上、いわゆる「自給自足」的な暮らしを営んできた。
スタートして2年目ぐらいだろうか。「なんでも自分でやってやる」という意気込みだったところで、自給自足の本来の意味は「自然から給わり(たまわり)、自ずから足を知ること」というフレーズに出会った。衝撃的だった。
確かに、自分でやれていることはほんの一部。ほぼ、自然界にあるものを利用させてもらっているだけだ。誰が植えたかもわからない柚子の樹が4本。そこから使い切れない量の柚子がギフトとしてやってくる。自分でまかなっているのではない。自然が与えてくれているだけ。
田んぼへの関わりも、自然に働きかけることで1粒が2000粒になる循環の中に身を置いたものだとしていた。
ここ2年ほど「田んぼを休んでみるとどうなるのだろう?」ということが漠然と頭の中に浮かんでいた。そうしたら、より身軽に動けるのではないかというところから。他方で思考は「自分の米は自分で関われ」と言っていた。
去年の11月に参加したサイエンズスクールの「人生を知るためのコース」。そこで、これまでの自分の人生を俯瞰的にみていった。ストレートに「人生の目的は何か?」ということを見つめていくプロセス。
その中で「10年以上、自給自足でやってきた」という僕のつぶやきに「バカじゃないの??? いや、冗談、冗談。けど、後藤さんの人生って、米作りのための人生なのかね?目的はなんだろうね〜」といったやり取りがあった。
これはガツンと認識の転換に役立った瞬間だった。確かに、自給自足ということを意識してやってきたけれども、「それが目的なのか?」と問われるとよくわからなくなった。
自分を見ていくと、それは目的ではなく手段なのか、ということに気づく。
手段が目的にすりかわっている。
「なんで、自給的な暮らしをしてきたのだろう?」と自分を見ていくと「安心かつ気楽な暮らし」「システムに依存しない自由度」といったニーズが見えてきた。
そっか、それを軸にしたらそこへ至る手段は自給的な暮らしだけではないのだな、と腑に落ちてくる。
もちろん田んぼ仕事自体にも喜びや発見はたくさんある。どちらかというと好きな営みだ。
が、それが自分の中で知らない間に「当然やるべきこと」になっていたようだ。そう、「春が来たから、田んぼだ」と自動的に反応で動いてきた。
ある意味で、思考でガッチリ固定されていたのだろう。自分劇場。
より深く自分に潜っていくと、「より自由な状態を経験すること」「今、自分が気になっていることの学びと研究を深めること」「自分が学んだことをシェアしていくこと」というニーズに行き着いた。思考ではなく、自分の軸により近いニーズ。あるいは、より大きくて広いニーズ。そこに意識を向けると自分がそれで包まれている感覚もある。
そこに立った時に、「米は自分で」としなくても、無農薬・無施肥で育てている友人から分けてもらえば良いのか、と視点がガラリと切り替わった。「自分のことは自分で」という思考から、「つながりの中で生かされる」という本来へ。頭の理解ではなく、それを生きるということ。
田んぼから離れることで生じて来る自由な時間と意識。それをより自分の軸が求めていることに使うことにした。
さて、11年してきたパタンと違う経験を味わってみるとしよう。