>>前回からの続き
コースマネージャー経由で、先生に「足音や自分が立てる騒音に配慮して欲しいと生徒に伝えて欲しい」と言ってもらった。
僕としては、この自分が取るアクションで「コースに静寂が立ち現れ、コース自体の質が高まる」と、良い事をした気になっていた。
しかし、先生からの返事は「寛容さを養う良い機会」という返事。
「なんだって???分かってないなぁ。ヴィパッサナーの目的は、心を浄化して、愛を生きることだろ。この雑音状態は、そこからかけ離れている。その学びの機会を生徒に提供しないのか?なんて指導者だ。ふざけてる。。。。。」などなど、頭の中は批判意見の大合唱。瞑想をしていても、全然集中できない。「よ~し、あの先生に何を言ってやろうか。あるいは、具体的な解決方法はあるかなぁ。「階段の上り下りに愛を」といった紙を一枚貼ってもらうだけでも良いんじゃないか。何なら、自分で作るか。。。」などなど。
瞑想しながらの止まる所を知らない妄想大会である。
その時、ふと「んん、この批判的なモードって、自分が何かに反応しているということなんじゃ?」と突如気付いた。気付きは突然やってくるから面白い。
「相手を批判する今の状態は、ただ単に自分が正しいと主張し、それを証明しようとしているのでは?」と冷静に自分を見つめる。
そして、自分の身体の感覚に意識を向け、距離を取って自分の思考と感情を見つめていった。このプロセスの中で、「自分が正しい=相手が間違っている」という意識の一部が浄化されていった。これは僕にとってはかなり根深い心の汚濁のようだ。全部解消したと言うのはおこがましいので、一部浄化としておこう。
この事に気付けた段階で、一連のプロセス自体に深い感謝の念が沸き起こってきた。足音の騒音や先生の対応があったことで、深い気付きと学びがやってきたこと。
そして、全ては学びのプロセスという体験的な理解と、他者も学びのプロセスに居るという深い理解がやってきた。
すると、不思議なことに、足音自体が気にならなくなったのだ。反応が消滅した。
そして、もうひとつの気付きもやってきた。他人の足音がうるさいと思いつつ、自分の「在り方」が他者に不快な想いをさせているかもしれないということ。
何をどう感じるかということは、人それぞれなので、僕が良かれと思ってしていることが、他者には不快だったりするかもしれない。そう考えると、「自分が思う正しさ」は当てにならない。そして、全ては学びのプロセスであり、「自分の在り方」が常に問われると感じた。
自分の在り方をより精妙でサトヴィックな方に近づけていく。僕の場合の大切にしたい基準は、自然の一部として、どう調和を持った存在として在るか、ということ。自然やいのちは本来的に慈悲的な存在なのだ。慈悲は細部に宿る。そこに意識を向けていきたい。
現状は、雑なところも多々あり、批判意識も強く、人を傷つけることも多い。「自分が正しいモード」になることもたくさんある。それを理解した上で、日々起こる学びのプロセスをたのしんでいこうと思う。
こういう学びや気付きがある分、僕の人生は豊かになる。