高校生か中学生の時に、あるTV番組でこんな紹介があった。
「タイでは普通のサラリーマンが3ヶ月間に渡り僧院生活をして、托鉢をしたり、瞑想をしたりする。そういったことが文化としてある」といった内容だった。
その時に、「良いな〜。僕がタイ人だったらそれを経験したい!」と強烈に思った。
今回2度目のヴィパッサナーに参加して、この仕組みはかつて自分が「良いねぇ!」と感じたものと似た仕組みだと理解した。
ヴィパッサナーの10日間コースの間、明確に戒律が設けられ、それを遵守することになる。シーラー:戒だ。
1 いかなる生き物も殺さない。
2 盗みを働かない。
3 いかなる性行為も行わない。
4 嘘をつかない。
5 酒や麻薬などを摂取しない。
コース参加2度目以降の生徒には次の3つも付け加わる。
6 正午以降食べ物を摂らない。
7 娯楽を行わず、身体装飾をしない。
8 ぜいたくな、あるいは高い寝台で眠らない。
そして、生活は非常に規則正しい。朝4時に起きて、4時半から瞑想がスタートする。食事は1日2食+ティータイムがある。食事に付随したちょっと長めの休み以外はけっこうタイトなスケジュール。瞑想と瞑想の間には5分程度のトイレ休憩があるだけ。それが、夜7時頃まで続き、締めくくりは録音音源による講話を聴く。そして、夜9時半には消灯という一日。トータルで10時間半ぐらい瞑想する時間がある。瞑想三昧である。
この短期間の修行僧の生活の中で、「在り方」が気になっていた。
Human Being:人間。Doing ではなく、Being、「どう在るか」ということ。
瞑想の実践を積み重ねることで、いのち本来の「慈悲心」「優しさ」が発露するという説明。確かに、余計なもの、心の汚濁が浄化されていくことで、自分の中の反応が薄まり、小さなことに感動したり、優しい気持ちになれたりしてくる。
風呂でお湯がでることに感謝したり、食事のメニューにちょっとしたマクロビスイーツが登場したことに愛を感じたり、日の光の暖かさが嬉しかったり。「ああ、生きるって素敵だなぁ」と素で思える状態になっていった。
これは、「いのちは本来的に愛である」ということを体験的に理解した知恵となっている。
一方で気になることもあった。コースには男子40名、女子40名ほどが参加しており、コミュニケーションは交わさずとも、ある種の共同生活をしている。瞑想ホールは木造で、足音が響くのだが、この雑音がけっこう激しい。「階段を上り下りする際、ドアの開け閉めなど、そこに慈悲心が欠けている」と少しずつ気になるモードが強まっていった。
そこで、コースマネージャーに「3年前はもっと静かだったと思う。足音や騒音に意識を向けて、他の参加者に配慮するように、先生(瞑想の指導者)から伝えてもらえないものだろうか?」と提案をしてみた。ちなみに、参加者同士のコミュニケーションは無いが、マネージャーには困り事など相談できる。
「最近、そういった意見もけっこうあるようです。注意するかどうかは、先生によるのですが、分かりました、私から伝えておきます」と言ってくれた。
よし、これで状況が改善されるだろうと楽観的に考えていたが、そうはならなかった。「すみません、先生に伝えたのですが「今の状況はみんながパーラミー、つまり寛容さを養う良い機会だ」というお返事でした。これ以上は僕にはどうにもなりません。先生は質問があればいつでも来てくださいとのことです」という返事をいただいた。
さて、皆さんはこの返答を聞いたらどう感じますか?
>>つづく