「なんと、すべて自分劇場でした」(サイエンズという手法)

この1年間で、NVC/共感的コミュニケーションと並行して「サイエンズ SCIENZ」という手法を三重県鈴鹿市で学んでいる。
最近注目されている「アズワンコミュニティ」と言うとピンと来る方も多いかな。

サイエンズについて、自分なりの理解を書いていきたい。
NVCを学ぶメンバーや友人達に「こんな手法があるよ」と伝えたいのだけれども、なかなか自分の中で腑に落ちた感じ、言葉にする感覚が得られていなかった。
何となく、この辺が大切そうだな~ということがつかめてきた気がするので、その限りでのシェアをしてみたい。多分、勘違いもたくさんあるし、頭で理解しているだけで本当の意味で腑に落ちていない部分もたくさんあると思うけど。
なので、試みとして。

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サイエンズ研究所のHPには以下の表現がある。

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SCIENZ という言葉は、Scientific Investigation of Essential Nature(科学的 本質の探究)の頭文字 SCIEN と Zero(零・無・空・・・)の Z によるものです。

「科学的本質の探究」をやさしく言うと、どこまでも「分かった」「できた」等、結論づけない営みとも言えます。
人の言動や、あらゆる事象について、固定・停滞なく、ゼロから、その背景や元にある内面・真相・原理を知ろうとする考え方を「サイエンズ」と呼んでいます。
サイエンズは、人間の知能を最大に活かして、科学的に本質を探求しながら、実現をはかる考え方を表しています。
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「科学的本質の探究」と書いてあるけど、日本語として両義的に読める。これは「本質の科学的な探究」という意味だと理解している。

僕なりの理解としてはサイエンズを学ぶと「自分の物事の認識・捉え方を根源的にひっくり返す」ことが可能になる。むしろ「ひっくり返る」という方が自分の「リアリティには近いかな。経験してみると「言われてみれば」みたいな感じでシンプルなのだが、かなりラディカル=根源的。
そして、「そもそも」というところの本質や本来に意識を向けていく。

このサイエンズについて、ここが大切だなぁ、と自分が思うところをいくつか書いていこう。

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「なんと、すべて自分劇場でした」

物事や人の言動を見た、聞いた、認識した、というのは全て「自分の捉えたこと」であって、それが事実・実際というわけではない。捉えたことを「事実化」せずに、自分がそういう風に捉えているんだよなぁ、という自覚が大切。

例えば、先日某所で荷物を送ろうとしたら、担当者が「100のサイズに丸を付けた」
「あれ、80サイズに納まらない?一応、家で測ってきたんだけど」
「いやぁ、、、1センチちょっとオーバーしてます」
僕はそれを聞いただけなのだが、そこで反応が生じる。
自分劇場=あきら劇場が展開される。
「なんだそれ、しかも無愛想だな」
「1cmちょっとだと、そんなもん誤差範疇だろ!融通の利かないヤツだ。自分で測ったら納まってたのにな。測り方が下手なんだよ。」
「そんなら送らんでいいわい。」
とアレコレ劇場型の思考が頭の中を駆け巡る。
ひどい場合は「こんな店二度と使うか~!」みたいなところまで暴走するのだろう。もっといくと「これだから福岡県はダメなんだ」とか「こんなことだから日本は没落していくんだ」とかどこまででも劇場は展開され得る。

その時には「あ~、そんなら良いです」と荷物を引き取って戻った。
この時、あきら劇場の中では
「融通の利かない窓口担当者」
「これだから「ゆう○○局」はダメなんだ。やっぱりお役所仕事的だわ」
「自分が測った時には80サイズに納まっていたのに」
と、あたかもそこに事実・実際があるような思考の構造になっている。

そして、相手に「融通の利かないヤツ」というラベルを貼り固定化してしまう。
次にその人に会った時や町で見かけた時に「あ、あの融通の利かない人だ」みたいに捉えるのだろう。

笑い話のようなことだが、世間一般でもけっこうあるのではないかな。
小学校の時に意地悪をしてきた相手は、今でも「意地の悪い人」
いつも眉間にしわを寄せて仕事をしているあの人は「無愛想で怖い人」
こないだ大きな声で怒鳴っていたあの人は「近寄らない方がいい危ない人」
などなど。

ここで何が生じているのか?
「自分が捉えただけのこと」なのだが、それをあたかも「事実」として認識している。瞬時に自分劇場が展開されて事実化がなされ、それが固定化される。
そして、これが自分の頭の中でぐるぐる展開されている自分劇場なのだということに自覚がない。あたかも向こう側=外に事実があるように捉えている。

何が問題なのか?
相手や物事が「実際にはどうなのか?」ということに意識がいかずに、自分の捉えたことが事実であり、正しいとなってしまう。
上記の窓口担当者は「以前「まぁ、このぐらい良いですよ」と言ったことを上司に強く怒られた」ことがあるのかもしれない。朝礼で「サイズに関してはキッチリ計るように」と念を押されていたのかも知れないし、1センチであろうがオーバーはオーバーという点で正直さを大切にしているのかも知れない。
ラベルを貼り、固定化すると、そこに「本来の相手」はいない。いるのは、「自分が「こうだ」とキメてしまった相手」だ。

世の中の大半の対立、争い、諍いって「正しい/間違っている」「善/悪」という二元論がベースになっているのではないか。そこにキメつけ、固定化がある。
「私は正しくて、あんたは間違っている」と言われると構えるし、対立的になる。

ここを越えていくにはどうしたら良いのか?
根っこでは善悪観や二元論的な捉え方があるけど、表面的に「善悪で表現しない、ジャッジしない」と努力することではない。
頭での理解ではなく、サイエンズで物事や自分自身を見ていくと、認識が根本的にひっくり返る。
「そう思おう」ということではなく、そのように認識する、認識できるようになるということのようだ。

サイエンズでは「自分がそう捉えているだけ」という「自覚」を大切にしている。それがあれば、「正しい/間違っている」という枠組みの外で対応できるようになる。
「正しい」は外にあるのではなくて、自分の頭の中にある。ただただ、自分がそう捉えているだけなのだ。

この視点で自分を見ると、なんとまぁ、全て「自分劇場」なんだなぁ。
自分が捉えたことが刺激=インプットとなって、思考は高速回転をして、あれこれ情報や判断材料をかき集めて、ストーリーを構築して、アウトプットを作る。そして、自分の中ではそれが事実になってしまう。

それを自覚して、「おっと、自分劇場が展開されているぞ。実際はどうだっけ?」というモードに切り替えられるかどうか。僕自身、言うは易しで、まだまだ難しいし、練習中だけど。

伝えたいことが、伝わっているかな?

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書籍もいくつか出ているので面白いけど、体感することで理解は深まると思う。