2度目のヴィパッサナーは自分の中に少しの余裕があった。
勝手が分かっているというか、流れも頭に入っているから、不安がない。
余計な事に意識を取られずに、瞑想に集中することができた。
3日半はひたすら「鼻から出入りする呼吸に意識を集中させる」という修行。
アーナーパーナー瞑想という。これが、辛いのなんのって。。。
とにかく、集中が出来ない。情けないぐらい出来ない。
瞑想は大体1時間から2時間のセッションなのだが、1時間ほとんどウツラウツラと眠っている状態だったり、3分と集中できずにアレコレとしょうもない考え事に支配されていたり、身体が痛くて瞑想どころではなかったり。
「京都に瞑想に来て、1時間の居眠りってなんやねん!」と自分にツッコミを入れてみたり。
とにかく、意識も身体も長時間の瞑想に慣れていないので、かなり辛い。
この状態が3日目ぐらいまで支配的だ。
しかし、この「集中できない」という事自体が、こころの汚濁が浄化されるまいとしている抵抗とのこと。
とにかく、粘り強く、辛抱強く、修行を続ける事を諭される。
確かに、徐々に意識と身体が慣れてくるのか、楽になってくる。
慣れてくると1時間座っているのも楽々やれる感じになる。
アーナーパーナー瞑想を3日半やった後に、身体の感覚をたどっていく「ヴィパッサナー瞑想」に入る。
この段階では、身体が慣れてきていることもあり、意外とスムーズに瞑想できるようになっている。もちろん、妄想もたくさん出てくる。
6日目には全身の感覚が流れるように移動する「フリーフロー」がやってきた。
3年前はひと呼吸で肌感覚が頭の先から足の先まで2往復する激しい流れを感じたことがある。今回は、かなりゆっくりなのだが、身体の表面をエネルギーが流れている感じを得ていた。
その他にも光に包まれているような至福に満ちた感覚や、自分の肉体とそれを観察している意識が別離しているような感覚など不思議な経験もあった。
前回はそういった経験に浸っていたが、今回はそれを冷静に見つめることが出来たと思う。
この瞑想法の大切なポイントはこういった感覚に惑わされずに、それも「過ぎ去るもの」としてただただ見つめる、観察するということ。
並行して身体の感覚に意識を向けておくということ。
そのプロセスの中で、潜在意識下のこころの汚濁が浄化され、本来の意識に近づいていく。
確かに、瞑想を積み重ねることで、意識は軽くなり、アレコレと反応しなくて済んでいる自分がいることに気が付く。
そして、自然と「慈しみのこころ」が立ち現れてくる。
「ああ、いのちの本質は優しさ・慈しみなんだ」
ということが、頭ではなく、身体と心の全身で丸ごと理解できるとでも言おうか。
正に、腑に落ちるという身体感覚がピッタリくる。
教えの中で、知恵には3つあると説明されている。
「借りた知恵(人から聞いたもの)」「頭で考えた知恵」、そして「体験した知恵」だ。
この「体験した知恵」が最も大切とされていて、それを体得するために、瞑想をするということだ。
ブッダは次のように語っている。
「自分の修行は自分でしなければならない。
ゴールに到達した人は、その道を教えることしかできない。」(ハート:125-126にて引用)
というわけで、全人類に体験して欲しいとすら思うわけです。
もちろん、一度体験したら全て浄化されるというわけではなく、継続的に浄化は続けていく必要がある。時間は限られるけれども、座ることが毎日の習慣になってきている。
参考文献:ウィリアム・ハート(1999)『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門』春秋社.