農村営業から半農半スロービジネスの模索 仕事と暮らし ライフヒストリー

beart つながりぢから探究ラボ
代表:神山 彰(JIN Akila) ライフヒストリー2 (その1はコチラ

【日本行脚の農村営業から赤村移住まで】
農文協は食と農にめっぽう強い出版社。新人は地方営業を担当する。全国各地を動き回りながら、農家に直接書籍の営業をしていく。『現代農業』という月刊誌の定期購読や食育関連の絵本などを紹介して回る。
2年弱で北は秋田から南は鹿児島までたくさんの農山村や町、時には都市を原付バイクで営業して回る経験をした。仕事中はほぼ屋外で四季や天候の変化を肌で感じる時間だった。
大体は3〜5人ぐらいのチームで動いていて、基本的に地域の宿暮らし。月一回は研修があるので東京へ戻るライフスタイル。


京都綾部市さとやまネット(半農半Xの塩見さんが運営している場を休日に訪問)
たまたまアースオーブンの補修をやっていて、お手伝いして、食事もご一緒した。

給料をもらいながらフィールドワークをしているようなもので、いろいろなところに行けるし(観光では絶対に行かない山奥の集落とか)、農家のリアルな現場で話もできるし、食と農に関する情報資源は豊富にあるし、けっこう面白い仕事だった。
ざっと5,000戸ぐらいの農家に出会っているし、200以上の自治体を回らせてもらった。
農村を回っているうちに、「田舎で暮らした方が良いな。自然は豊かだし、食は豊富だし」と思うようになる。食べ物を生産している人たちは「絶対に飢えない」という自信があるようにも感じていた。

仕事としては、「この本にはこんなことが載ってますよ」「どこそこでは、こんな取り組みもあるみたいですよ」と食や農、地域づくりの情報やアイディアを届けていく。
けれども、そのいずれの領域も「自分ではやったことがない」ものだった。相手が必要としている情報を届けるという点では意義深いけれども、「なんだか自分は傍観者的な位置にいるなぁ。その領域での主体ではないなぁ」という感覚が強くなっていった。

たくさんの農村を駆け回るうちに、自分で田んぼや畑、田舎暮らしというものを実践したいと強く感じるようになっていった。
ある時、研修で東京に1〜2日滞在し、そこから京都・丹波地方の山村に移動した際に「山を見てホッとしている自分」に気づく。「ああ、もうこれは都市では暮らしていけないし、自然の中に身を置くのが合ってるなぁ」と明確に感じた。


写真はいずれも京都と大阪の山間部

農文協での仕事をスタートすると同時に「スロービジネススクール (SBS)」というプロジェクトにも参加(現在は休止中)。
ナマケモノ倶楽部の世話人の1人である中村隆市さんが発起人になり始まった「自分たちで学び合いながら、いのちを大切にする仕事を作っていくインターネット上のスクール」。
仕事で各地を移動しながら、限られた休日にSBSメンバーに会って交流したり、合宿に参加したりもしていた。

農村に住んで次の展開に移りたいなぁ、と漠然と考え、そんな発信をSBS内でしていた時に、中村隆市さんが「ごとーくん、うちの会社で働く気あるかね?」と声をかけてくれた。
中村さんはフェアトレード・コーヒーを扱うウインドファーム (WF)という会社を経営していて、福岡県田川郡赤村にカフェを作る計画もあり、そこでエコヴィレッジ的なプロジェクトも展開したいという。

自分が単独でどこかの農村に移住するには踏ん切りがつかなかったし、どこに行きたいというイメージもなかったので、仕事もあって農村に住めるありがたいお話だった。
けれども、農文協で今後は書籍や雑誌の編集に携わるかも知れないし、実はコーヒーはあまり好んで飲まないし、給与は下がるし、と実はちょっと悩んだ。

中村さんから「今の社会にはたくさんの問題や課題がある。その問題を生きるのではなく、答えを生きる。そんなことを一緒にしてみないか?」とメッセージをもらう。
「問題ではなく、答えを生きる」という発想に背中を押され転職。
28歳の時に赤村に移住し、半農半X的なライフスタイルを実践し始める。

【楽しすぎた?赤村での暮らしと仕事】
移住当初は赤村で住居を確保するのが難しく、数週間は関係者の家を転々としていた。その後、大きな建物の一間を間借りする形で新生活がスタート。その後、ご縁で現在住んでいる古い民家を借りられることに。

農文協での経験から地域の人と仲良くなるために、直売所のおばあちゃんたちと交流したり、そこの仕事を手伝ったり、ホタルを守る地域活動に参加したりを始める。

田んぼや畑も借りてやり始め、在宅勤務的な時間が多いスタイルだったので自由だし、仕事関連でいろいろな場所に出て行ったり、研修を受けたりで、とても充実していて楽しい日々だった。
「こんなに楽しくて、バチが当たらないだろうか?」という不安があるぐらい。まぁ、能天気なものだと今では思う。

当時どんな仕事をしていたかを一部でも書くと、「何屋さんだか分からない状態」がよく見える。

*カフェのスタッフ。食に関するお話会や音楽ライブ、マルシェ的なものなどのイベントを企画したり、忙しい時はホールを手伝ったり、出店イベントでコーヒーを抽出&販売したり。アースディ赤村なんて企画もやったな。
4年目ぐらいからだったか、「内部の事情や本社とのつなぎもできるから、とりあえず店長やっておいて」という感じで店長に。ただ、他の仕事もしているので、お店にいないことも多くアテにならない存在。本社とのつなぎ、スタッフとの面談や経理関係も担っていた。


中村隆市さんと辻信一さん@クリキンディ
お二人とはナマケモノ倶楽部時代からの付き合い

*コーヒーの営業。営業職の経験があるので、地方に行った際に既存のお客さんを回ったり、新規開拓をしたり。
商品企画にも一部関わっていた。社内の話し合いのコーディネート兼ファシリテートもしていた。

*フェアトレードの特性からコーヒー産地(メキシコとエクアドル)と紅茶の産地(インド)を訪問して、そこでの様子をウェブ記事にしたり、冊子の記事にしたり。そういえば、韓国にも行ったね。
これまた仕事で色々なところに行かせてもらってディープな経験もした。


メキシコ・アグロフォレストリ(コーヒーと果樹を一緒に育てる森)

*スロービジネススクール(SBS)の企画運営。数年は事務局長だった。新規のメンバーをネットで集めたり、年に2回ほどの合宿を企画&運営したり、オリジナル商品の企画をしたり、『デンジハ?』という冊子をチームで作成したり、ウェブショップを立ち上げたり、地域通貨の運用をしたり。


事務局で組織の方向性やヴィジョンについて話し合い。
他の団体からの支援も受けて、この時期にファシリテーションや場作りについて集中して学んだ。


SBS合宿での一コマ・対話の場

*ゆっくり村のプロジェクトとして田んぼをやりつつ、田植えや稲刈りの合宿を企画したり、味噌仕込みや竹筒でご飯を炊くワークショップを実施したり。

それぞれの仕事が分断されていなくて、WFという事業体の中で連動していた。
そして内容が面白くて学びもあり、自分の価値観に合っていた。
なので常に仕事をしている状態で、あまり休日という状態が無くても苦にならなかった。
でも、常に「何かやること」に追われていた感覚もある。

ちなみに給与はWFからいただいていたので、農村に住み、複数の面白い仕事をやりながら固定給が出る恵まれた状況だった。
ある時、中村さんが講演会の中で「うちの会社は珍しいところで、給料が半分になっても喜んで働いているスタッフもいます」と言っていた。「ん、誰のこと言ってんだろ?」と頭の中で自分の過去とその時の給与を計算してみた。賞与を加味したら「あっ、自分のことじゃん!ほんと、ほぼ半分だ」と驚いた。
けれども、自由さや面白さ、充実感というものは倍増しているよな、と思っていた。

【つまずきも】
全てバラ色かというと、そうでもない部分ももちろんあった。
だいぶフル稼働の状態で、朝起きると頭がすぐに動き出して「今日はアレとコレとをやって、ああ、ソレもあったな」みたいな忙しさ。
ある時、初めて行った鍼灸院で頭を触ってもらった際に「頭ガチガチですねぇ。ものすごい硬いですよ。頭使いすぎですね」と言われる始末。
気力と体力でガシガシ仕事をしていた感じだけども、今思うと「結果を出す」とか「成果をあげる」、「ビジネスとして成立させる」みたいな部分にとても囚われていたと思う。

その囚われもあるからなのか、一緒に仕事をするメンバーとの人間関係は「心地の良いもの」ではない場合もあった。
「殺気立って仕事をしているから、相談しにくい」なんてコメントをもらったことも。
しかも、複数の部門を同時並行に進めていたので、自分自身はどこにもフルコミットできていない感じがあった。各部門の他のスタッフからしたら、「どこかヨソの人」的な存在だったかも知れない。

「いのちを大切にする仕事や社会」という同じ方向性を向きつつ、どこかでギクシャクしてくる人間関係もあった(もちろん、全てではない)。
そんな経験の中で、いつしか「人との関わり」は「面倒なもの」「1人でやった方が早いし楽だ」「自分は人と一緒に何かをするのは向いていない」と思うようにもなった。
どこか孤立感を寂しさ感じつつも「まぁ、こんなもんさ」とやり過ごしていた。

農村に住んで「半農半X」「半農半スロービジネス」と言いつつも、半X/半スロービジネスの部分に自分のオリジナリティがないのが悩みだった。
会社の中で必要な仕事をしているが、自分が本当にやりたいことなのかどうかが分からなかった。この辺は、大学や大学院、そして農文協での仕事の中で「これだ!という自分のテーマが見つからない状況」と重なる。

なので「修行している」と捉えて、会社という枠組みに貢献できることをとにかくやっていた。
「ゴトーさんは振られた仕事を全く断りませんよねぇ」なんて言われながら。

頭の中では、もう少し「やること/仕事」を整理して、週3〜4日だけ働いて、あとは自分の好きなように動くスタイルにシフトしたいと思っていた。それは自分なりの半農半Xをさらに模索することも意味していた。
しかし、色々な状況下で、その踏ん切りがつかなかった。

そんな折に、東日本大震災が起きる。そこで自分の人生観がシフトしていく。

振り返ってみて、仕事を通して本当に色々な経験をさせてきてもらったし、学ばせてもらった。それがあって、今の自分があるよなぁ、としみじみ感じる。
特にWFやカフェ時代に持てた人とのつながりやネットワークは今でも大いに生きている。おかげさまです。