ここ最近、スカイプや実際に顔を合わせて「サイエンズ的検討」というものをやってみている。
先日は「コミュニティ」について検討してみた。
「そもそもコミュニティって何だ?」ということをゼロベースで調べていく。
一人ひとりが、どのようにコミュニティを捉えているか?
自分の中のイメージとしては以下のような感じだ。
その人がその人の本質を生きること。イキイキしていて、その人の本来持つ能力やセンスを存分に発揮している状態。お互いがそう成れるための人と人とのつながり。それがコミュニティかな。
話をしていて、「個であり同時に全体である」というイメージが浮かんできた。
人体をイメージした時に、身体の各パーツはそれぞれ個別に機能している。本来持つ能力やセンスを発揮している。それで全体も調和が取れている。
右手で握ったカナヅチで誤って左手の指を打ったとする。「右手め!何やってんだよ、どこ見てんだ、痛いじゃないか!このやろう、仕返しだ〜!」という反応をするだろうか。
そうではなく、痛んでいる左手の指をかばったり「イテテ」とさすったりという反応が出てくる。全体として調和を取ろうとする何かの力が働いている。
そこには「分離/分断された関係性」ではなく、お互いがつながっていて、「全体として『ひとつ』の関係性」という気づきがある。
暮らしに目を向けた際に「個別に成立させねばならない」「自立しなければ」という強いキメツケがあるように思えてくる。
「人に頼ってはいけない」とか、「自分のことは自分でできるようになりなさい」とか、「自立」ということが社会的価値として言われている。それが極端になってくると「自己責任論」にもたどり着く。負け組になりたくなければ、自己責任で頑張りなさい、という論理だ。
実際の世界に目を向けると、果たしてどうだろうか?ゼロベースで見ていくと?
人体のメタファーで考えてもわかるように、切り離された個別で成立しているものなどない。
一人の人間が生きているということは、膨大なつながりと相互作用の中で成立している。
「自分のことは自分でやる」という意味での「自立」なんて、有り得ない幻想に思えてくる。
自給自足も「自然からもらっているだけのこと」だと感じるようになった。
「自分で頑張らなければ、生き残っていかなければ」という不安や恐怖モードを手放す。そして、「自分の本質を楽しみながら思いっきり生き抜く」という歓びモードで、周囲の人や環境やに委ねる、任せる。「君あり、故に、我あり」の連鎖。そういった関係性をコミュニティと呼んだら良いのではないか。
*人は一人では生きられない。だから、自分の嫌なことも我慢して、周囲に合わせて、一緒に生きていく。調和を取るためにルールも作って、守る。義務や責任も発生。全体があっての個という路線のコミュニティ。
*一人一人が自分の本来を生きる。生き生きと自分を発揮する。それはなかなか一人ではやれないので、人と繋がり、コミュニティを形成して助け合い、生かし合い、発揮し合う。個と全体の調和という路線のコミュニティ。
僕の理想はもちろん後者なのだが、そんなコミュニティを具体的に生きたい。
その際に、「暮らしのシェア」ということがカギになる気がする。
今の経済社会に取り込まれて「ひとりでやらねば」となっているところをお互い様、お陰様でシェアしていく。近くに住んでいたら、それだけシェアの可能性は広がる。
すると、経済的にも時間的にも余裕が出てくるはず。「脱-忙しい」、「脱-余裕がない」。
余裕を使って、より本質を探究していく。
一人一人の可能性を発揮していくには、やっぱりたくさんの学びや検討、探究、話し合いが必要になる。ツールとしてサイエンズやNVCをフル活用したら良い。
それが文化を生み出していく。
そういったことを実際に生きていく。
残りの人生はそんなことをしていこう。